なるほど情報ウェブマガジン【週刊コラナビ北海道】毎週木曜日更新

週刊コラナビトップ第5回 札幌中央形成外科 院長 武藤英生さん

第5回 札幌中央形成外科 院長 武藤英生さん

第2回 脳外科を選んだのは、父への抵抗だったんです

先生は、小さいころ何になりたいと思ったんですか?


タクシーの運転手、ですね。


あーなるほど。
僕はね、魚屋さんになりたかったんですよ(爆笑)


それはまたなんで??(笑)


子供の頃、ウチの近所の魚屋さんがあって、そこのおばちゃんが凄くかっこよかったんですよ。お店に並んでる魚を鉤型の棒でさっと引っ掛けて、袋にいれてさっと包む姿とか、アサリをざざっとすくって竹の皮の包みに流し込むところとか…。(笑)
先生はなぜタクシーの運転手?


やっぱりかっこよかったからですね。帽子かぶって白い手袋をして…


それは小さい頃のことでしょうけど、もう小学校の高学年くらいになると、お医者さんになるって思うようになるわけですか?


それはもう、だって周りから洗脳されてますもん(笑)
時間をかけた洗脳ですよね


じゃあその頃にはもう違う職業に憧れたりはしなくなっちゃうわけですか


だって他の選択肢がないんですよ
子供心に、自分はもう医者になるしかないんだって、思っちゃってるんですよね


あー。やっぱりそういうものなのかもしれませんね


結局、最終的には医学部に行くと自分で決めて、医学部入学して、卒業して、医師免許とって…。
でも、最初に形成外科に行かなかったのは、僕のせめてもの抵抗だったんですよ


え!?脳神経外科に行ったのは「抵抗」だったんですか!


はい。とにかく親の言うことをきいて医者にはなった、と。でも、ここから先は自分が決めてもいいよな…と。
神奈川県の大学でしたけど、札幌には帰らなくていいやって思ってましたし、父がつくった病院なんだから自分がたたみなさいよ、みたいなことを思ってましたね


はー、そうなんだ。あとを継ぐのは俺だ、みたいな使命感があったんじゃないかと思うのですが?


その頃は若いし、とんがってるし…。
あの頃一番思っていたのは「父と正反対のことをやろう」と。
美容外科は病気というよりは比較的健康な方が来るわけですけど、脳外は一分一秒遅れると死んでしまうこともあるわけです。手術も、頭開いて顕微鏡で覗いてとか凄いダイナミックですよね。それこそ「救命救急24時」みたいな生活をずっとやってきたわけです


先生、そもそも脳外科を選んだのは、やはり救急の第一線で働きたかったからですか?


いえいえ。かっこいいと思ったんです(爆笑)
その一言につきます。
救命救急の学生実習のとき、例えばくも膜下出血の患者さんが来ると、サーっと扉が開いて脳外の先生が颯爽と入ってくるわけです。かっこいいなーと(笑)
それに、学生の頃とてもお世話になった先生が、「お前、脳外科に来ないか」と言ってくださったことも大きいですね。
他の科からもいろいろと誘いがあったのですが、思いっきりハードなところを選ぼうという気持ちがありました。


ああ、そうなんだ


ええ。
意外だったのは、脳外に行くことを父は反対するかと思ったら、凄く喜んでくれたんですよ。「俺、脳外にいくから…」って言ったら 「おお、そうか。大変だぞー」っていいながらも喜んでいたんですね。
実は、父は若い頃に結核にかかったことがあるので、肺も腎臓も片方取ってしまって無いんです。だから、体力の必要な仕事ができないので長時間に及ぶ手術をするような外科はもちろん無理。結核の薬の副作用で耳が遠いので、聴診器が必要とされる内科もできない。で、眼科とか耳鼻科に行って、最終的には美容外科になったんです。
後日、母に聞いた話ですが、父はテレビのドキュメンタリーなどで救命の現場を見たりすると「ああ、これが医者の本来の仕事だよな」って言っていたらしいんです。ですから、自分がやりたくても出来なかった仕事を息子がやっているという事は、これはこれで親孝行なのかな、とも思うんです


そうですね。
なるほどそういう事情があったんですか…


脳外科で働いてチーフにもなって、ハードな毎日で、月に数日しか家に帰れないような生活になってきて…。ちょうど最初の子が生まれた頃ですが


おいくつで結婚されたんですか?


30になったばかりの頃です。医者になって3年目です。
ウチのカミサンも救命救急で看護婦として働いていたので、家で会うよりも職場で顔を会わせてる時間の方が長かったですね


そうしますと、奥様とは夫婦であると同時に救命救急の職場のチームであったわけですね


はい。チームの同僚です。
夫婦最初の共同作業が、患者さんに点滴を入れてる、みたいな(笑)


同じ職場にいらしたということは、当然先生のハードな仕事ぶりをよくご存知なわけですよね


はい。2週間ウチに帰れなくても全然怪しまれないんですよ。それは普通な事なので。それに、職場の看護婦からカミサンに連絡が入ってるんですよ。「昨日重症の患者さん来たよ」とか「ダンナ、昨日はICUの床で寝てたよ」とか(笑)


受け持ちは、救急ですか


救急外来と入院病棟、それと手術室です


そうとうハードな生活ですね?寝る時間なかったでしょう


寝てなかったですねー。あの頃はよく動けていたと思いますよ。2日間徹夜とか普通にありましたから


MR時代、よく思ったのですが、お医者さんて器用ですよね。医局のソファで10分とか15分の間眠っていて、それでもパッと起きてすぐ行動できるのが凄いなと


それが出来ないと生きていけないんですよ。エレベータの中でも一瞬寝ます。チーンってなると起きて出て行くとか(笑)


脳外の先生をされていたのは何年間ですか


トータルで5年です


脳外科というと、かなり細かい作業をされるイメージがありますが


顕微鏡を使って脳ミソの細かいシワをかきわけかきわけ、という作業は確かに細かいんですけど、でも、それを言うなら形成外科だって「血管吻合」で1ミリ2ミリの血管を顕微鏡を使って繋いだりするわけですからかなり細かい作業ですよね。ですから脳外だけが突出して凄いかというと決してそんな事はないと思いますよ


脳外の先生を5年間やられて、それから札幌に戻ることになるわけですが、それは何か大きなライブイベントのようなものがあったのですか?


長女が生まれたときに、札幌から両親が初孫に会いに来たんです。職場の先輩が気を利かせてくださって、せっかくご両親が来ているのだから、ゆっくり食事でもしてこいと言ってくれたんですね。
その食事の席で、父が、「札幌に戻ってくるつもりはないか」と言いまして…。
「(息子は)俺と違うことをやった」と脳外科医をやっていることを喜んでくれてはいたんですけど、やっぱり父も年をとってきて、クリニックを今後どうするかを悩んでいたんでしょうね。自分が作ってきた病院を人手に渡すのもなぁ…という気持ちだったんでしょう


お父様にそのように言われていかがでしたか?


いやーー、むちゃくちゃ迷いましたね。
もともと自分は子供が大好きでしたので、ものすごく当時産まれたばかりの我が子に会いたいわけです。でも、脳外をやっている以上そうそうは会えないんです。家に帰れない生活ですから。周りの同僚も家に未亡人を作っているような状態でしたし。
「ああ、帰りたいなぁ」って思ってしまったら脳外科医はお終いなんですよ。家に帰ることを前提に仕事をするようになってしまったらアウトなんです。判断にブレが出てきますから。一生懸命自分を誤魔化し続けるしかないんです。
そんな時に父の言葉があったので、半年以上悩みましたね


なるほどそうでしょうね。やっぱりお医者さんは、辞めるにしても半年、1年前から勤務先に打診しておかなきゃならないでしょうから…


当時、脳外科で自分のライフワークと思って治療にあたっていた患者さんも何人もいましたし、特に健太郎は絶対に自分が最後まで診るという気持ちでいましたから…。
(編集部注 コラム「師匠」に健太郎君との暖かい繋がりが書かれています)
で、当時の医局長に相談したんですね。「医局長、実は今こういう状況でいろいろと考えているんですが…」と言ったら、「バカか!お前は」って凄く怒られました。
「家庭と仕事とどっちが大事だと思ってるんだ。家庭に決まってるだろう!! お前な、気持ちはわかるけど、お前にしかできないなんて事はないんだぞ。健太郎の事もちゃんと俺が診ているから。」って言われまして…。
それはもう目からウロコが落ちた瞬間でしたね


ああ。なるほど…


でもねー、健太郎や親御さんにはしばらく報告できなかったですね。あと何ヶ月で辞めるんです… なんてこと… 言えなかったなぁ


(連載第3回につづく)
(2007年11月15日)

コメントする


画像の中に見える文字を入力してください。

(画像が表示されない場合、画像のところでマウス右クリック-[画像の表示]を実行してみてください[Windows InternetExplorer, FireFoxの場合])

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 第2回 脳外科を選んだのは、父への抵抗だったんです

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://spiritlink.80code.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/865