「なぜ君は絶望と闘えたのか ~本村洋の3300日」
1999年。日本を震撼させた<光市母子殺害事件>の被害者、本村洋さんが事件後どのように裁判と関わり、司法の大きな山を動かしていったのか。そして何より、生きる力を失った本村さん支えたのは何だったのか。
そのルポルタージュ記録です。
事件からまもなく10年が過ぎようとしています。
<母子殺害事件>というあまりにも重たい現実。事件当時、臆することなくテレビカメラの前で、犯人に対し、司法に対し、烈火の如く怒りの言葉を発していた本村氏。月日が過ぎるごとに、まるで修行僧のように凛として穏やかに変わっていったのはなぜだろう?
僕はずっとそう思っていました。
ライターの門田氏は、事件直後から本村氏と会い取材を開始します。事件直後から、2008年に死刑判決が出るまでの道のりを、ノンフィクションライターらしく、淡々と事実を詳らかにしてゆきます。
最大の被害者でありながら自分を責めつづける本村氏。
その被害者をカヤの外に置いて裁判を続ける司法の壁。
過去の判例からの「相場主義」に徹しようとする裁判官。
少年法に守られている犯人。
そして
絶望の淵にある本村氏を支えていた周囲の人たち。
当時、まだ23歳の本村氏が背負った過酷な現実と苦しみは、毎日怠惰に生きている僕などには到底想像できないもの。想像することすらおこがましいかもしれない。
でも、彼を気遣う周囲の人の気持ちなら、少しは想像することができます。
事件後、生きる希望も仕事への意欲も全て失った本村氏は、会社の上司に『辞表』を提出します。
上司は静かに本村氏に語ります。
「君は、この職場にいる限り、私の部下だ。その間は、私は君を守ることができる。裁判はいつかは終わる。一生かかるわけではない。その先をどうやって生きていくんだ。君が辞めた瞬間から、私は君を守れなくなる...」 「この職場で働くのが嫌なのであれば、やめてもいい。君は特別な経験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。でも、君は社会人として発言していってくれ。労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。君は、社会人たりなさい」
(本書、第6章「破り捨てられた辞表」より抜粋)
独りで抱えきれない苦しみを背負っている部下に対し、僕ならこんな発言ができるだろうか?できないだろうな。あなただったら?あなたの会社の上司なら、なんて言いますか?
事件から10年の間、本村氏の様相は穏やかに変わっていたけれど、本村氏の心の中はなんら変わることなく一貫していました。だからこそ、あんなに冷静な発言をすることができるのだと、本書を読んでよくわかりました。それは筆者のこんな一文に記されています。
本村は、死刑制度というものは、人の生命を尊いと思っているからこそ存在している制度だと思っている。残虐な犯罪を人の生命で償うというのは、生命を尊いと考えてなければ出てくるものではないからだ。 (本書 第16章「辿り着いた法廷」より抜粋)
マスコミでは、センセーショナルの報じられることが多かったこの事件。
ノンフィクションというフィルターを通してもう一度冷静に、「罪」とは何か、「罰」とは何かを、自らに問わなければならない。それは答えが出ない問いかもしれない。でも、この社会に生きている以上考え続けなければならないのだと、思い知らされた一冊です。
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 『なぜ君は絶望と闘えたのか』門田隆将(新潮社)
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