NPO法人こころの郷の代表をしています。
こころの郷は心の健康を支援する団体で、カウンセリング、心理講座、
コラージュ療法ワークショップなどを行っています。
こころが疲れたとき、萎えたとき、元気になりたいとき、立ち寄ってみてください。
座右の銘は「花には水を人には愛を」「失意泰然得意淡然」
とにかく眠い、起きていられない...。
土曜日の夜から月曜日の朝まで30時間ほど眠り続けました。
起きていたのは食事とトイレのときだけ。
年に1~2回、このような日が訪れます。
よく眠れるなぁと思うけど、これは一種の自浄作用が働いているのかもしれません。
考えるのをやめる、身体を動かすのをやめる。
頭を空っぽにするために必要な時間です。
フォーカシングという心理療法で、脱同一化という技法があります。
感情を否定せず、感情の観察者になるということです。
たとえば何か失敗をして落ち込んだとすると、私は落ち込んでいると言います。
それをフォーカシングでは、私の中に落ち込んでいる部分があるとか、私の一部が落ち込んでいると言い換えます。
私と同一化している否定的な感情を引き離し距離をとります。
私はここ、落ち込んでいる気持ちはそこ。
私は否定的な感情のすべてではなく、その他のいろんな部分も持ち合わせていますが、悲しみや悩みや苦しみがあると、それが私のすべてとなってしまいがちです。
思考や感情は、私と同一化しやすいのです。
そして同一化すると他の部分が見えなくなり、その思考や感情に留まり、もうどうにもならない、抜け出せないと思いがちです。
しかし現実は留まることなく、変化し続けています。
否定したり解釈したり考えたりせず、ただ認めて眺める。
この一歩さがって眺めるということは、簡単なようで難しいです。
否定的な感情になりがちな人は、あっ、落ち込んでいる気持ちが出てきたなぁ、怒りの気持ちが出てきたなぁ、とか自然と思えるように練習が必要です。
そうすると、絶望的だと思える事態になったとしても、認めて眺めることができます。
脱同一化することは、こころにスペースをつくるということで、フォーカシングではクリアリング・ア・スペースといいます。
こころにスペースができると、現実をありのまま認めることができます。

80歳になった伯母は、やっと年を取ったという現実を認めることができるようになりました。
今を生きる、今を楽しんでほしいなぁと思います。
17日間続いたオリンピックが終了しました。
眠い目をこすりながら見たジャンプを皮切りに、モーグル、スピードスケート、カーリング、フィギアスケートなど今回ほどオリンピックを見た年はありません。
フィギアスケートが終わって収束ムードの時に、キラ星のように現れたパシュートというスピードスケートの団体戦に日本国中が湧きました。
閉会式を見ていると、競技には勝ち負けがあるけれど、世界は一つなんだなぁと感じます。
スポーツには素晴らしい力があります。
閉会式と同じ日に、映画「インビクタス/負けざる者たち」という映画を観てきました。
久しぶりに感動し涙が止まりませんでした。
いつも映画を観に行くと、映画の終わりに製作者や俳優などの名前が列挙される場面(エンドロールと言うらしい)が終わる最後まで観るようにしています。
ほとんどの場合、最後まで席に座っているのは数人です。
でも、この映画「インビクタス/負けざる者たち」は違っていました。
ほとんどの人は立ち上がろうとせず、最後まで座っていました。
場内が明るくなっても、余韻に浸っているかのような、なんとも言えない空気でした。
こころが一つになった、そんな感じです。
この映画の内容は、南アフリカ共和国で初めて黒人が大統領に就任した時の実話です。
アパルトヘイト政策で、27年間も刑務所に収容されていたマンデラ氏が大統領に就任し、黒人は白人支配からの解放を、解放というより復讐を望みました。
マンデラ氏は復讐ではなく、赦し(ゆるし)の心を国民に求めます。
そんな状況のときに、南アフリカ共和国でラグビーのワールドカップが開催されます。
今まで知らなかったのですが、ラグビーも4年に一度ワールドカップを開催しているようです。
国家を一つにまとめるために、マンデラ大統領は弱いラグビーチームを再建します。
あまり書くと映画を観る楽しみが無くなりますので、この辺りで。
とにかく最後に、試合が終わった直後に、ラグビーチームのキャプテンがインタビューに答えた言葉が感動的です。
スポーツには素晴らしい力があります。
映画の名になったインビクタスとはラテン語で不屈という意味で、マンデラ氏が投獄されている時に、勇気づけられた詩のタイトルだそうです。
このような不屈の精神が根底にあるからこそ、赦し(ゆるし)という寛容な心を保つことが出来るのだと思います。
インドを独立に導いたガンジーを彷彿させます。
しかし人の心は悲しいかな、ガンジーの望みは叶わずパキスタンが別れてしまいました。
世界は一つ、こころは一つ、繋がっている。
このラグビーワールドカップの会場となったスタジアムで、なんと今年はサッカーのワールドカップが行われます。
人種の違い、宗教の違い、思想の違いを超えて、こころは一つとなる、そんなミラクルを起こすことが出来る力がスポーツにはあります。
そして人間の英知にもミラクルはあるはず、と思っています。
今日も本屋さんをぶらぶらしていたら、本の帯に「産まなければよかった」と大きく書かれた本が目に留まりました。
松野明美さんの「いちばんじゃなくて、いいんだね」という本でした。
そして帯にはダウン症の息子と母の~と書かれていて、「松野さん、ダウン症のお子さんがいたんだ」と思いながら立ち止まることなく家路を急ぎました。
家に帰ってテレビを流しながらアイロン掛けをしていると、松野明美さんという声がテレビから聞こえてきました。
テレビではダウン症の息子さんとのドキュメント番組が放映中でした。
この不思議な偶然に思わず、テレビに見入ってしまいました。
松野さんは当初、息子さんの健太郎くんのことを隠していたそうです。
バラエティ番組などに出演している元気で明るい自分のイメージを守るためです。
健太郎くんを抱いて外出する時は帽子を深くかぶって、ひと目につかないようにしていたそうです。
それがなぜ公表する決心がついたかというと。
健太郎くんをある児童施設に連れて行った時、それは家の中だけで育てていた健太郎くんが初めて外の世界の人と接した時のことでした。
そこで目にしたのはニコニコと笑っている健太郎くんです。
その楽しそうな笑顔を見て、社会との繋がりが必要だと感じ、公表することにしたそうです。
それから健太郎くんの心が段々と成長していき自我が芽生えてきました。
それは喜ばしいことですが、わがままになってきました。
そこでランナーだった松野さんは親子でマラソン大会に参加することにしました。
マラソンを通じて、社会では嫌なこともやらなければならないときがあるという厳しさも知って欲しいと、母の願いです。
大会当日、健太郎くんは周りの人に抱っこをして欲しいと甘えます。
走りたくないのです。
松野さんは忍耐強く走り出すのを待ちます。
スタートから3分遅れで健太郎くんは走り出しました。
足元はヨタヨタですが、しっかりと大地を蹴っています。
「ヨーイドン」
健太郎くんがしゃべりながら走っています。
一言もしゃべれなかった健太郎くんが。
「ヨーイドン」は松野さんと健太郎くんが練習の時に、走り出す合図として使っていた言葉です。
どんなときも自分の足で歩ける人になって欲しい、母の願いが通じた瞬間です。
競争に勝つことだけを追い求め、一番でないと意味がないと生きてきた松野さんに、人生は競争ではない、自分のペースで生きるということを教えてくれた健太郎くん。
健太郎くんは人間として大切なものは何であるかを教えるために現れた天使ちゃんです。
この人さえいなければ~とか、なんでこの人なんだろうとか、万が一思うことがあるならば、その人は天使ちゃんかもしれません。
天使ちゃんは人生のターニングポイントに必ず現れます。
それは小さな利己心が大きな愛に変わる瞬間です。
別に名前は何でもいいのですが、天使ちゃん、そう心の中でつぶやくと、微笑みが生まれるから天使ちゃんと呼んでいます。
あれっ平和駅過ぎちゃった~
見覚えのある建物がどんどん遠くなります。
お話に夢中になって、降りるはずだった平和駅で降りそこなってしまいました。
次の駅、新さっぽろ駅で降りて折り返し戻るしかありません。
自分一人だったら、おバカな私...で済ませることができるけど、平和駅まで車で迎えに来てもらっていたので、あわててメールで連絡し、待たせることの申し訳なさで気持ちはいっぱいでした。
新さっぽろ駅に到着し電話をすると、なんとまだ家にいるとのこと。
出がけに電話が入り家を出ることができなかったそう。
結局、新さっぽろ駅から折り返し戻って、ちょうど良く、そのまま平和駅で降りていたら、寒さで凍えていたところでした(ちょっと大げさ)
一瞬失敗に思える出来事も「終わり良ければすべて良し」です。
こんなとき思い出すのは、船井幸雄さんの言葉です。
「世の中で起こることは必然、必要でベストのタイミングで起きている」
今から13年ほど前、本屋さんをぶらりぶらりしていて出会った本の中に書いてあった言葉です。
その言葉と出会ってからというもの何かが起こると「ベストのタイミング」と思うことが癖になり、そう思う癖がつくと、不幸に思えるような出来事も好機ととらえられるようになりました。
いつも前向きねぇと言われるけれど、そのような受け止め方の癖がついたためか、無理に前向きにしている訳ではなく自然と良く思ってしまうのです。
これを心理学では認知を変えると言います。
認知を変えると、感情が変わり、行動が変わります。
こころの癖を変える方法はいろいろありますが、もしも本好きならば本屋さんをぶらりぶらりすること、お勧めです。
自分の好きなジャンルだけでなく、雑誌から専門書まで一周すると、その時に必要な本との出会いがあります。
船井幸雄さんの本との出会いも、めったに行かないビジネス書のところで出会いました。
以前は特に用事がなくても毎週本屋さんに通っていました。
まずは新書をチェックし、それからぶらりぶらりと。
インターネットが普及し始めた頃から本屋さんに行かなくなったような気がします。
そんな私が最近手にした本は「奇跡のリンゴ」です。
NHKプロフェッショナル仕事の流儀で放映されていた木村秋則さんの取材記録です。
継続して肥料を投入することで、土壌が本来持っていた力は失われるそうで、木村さんは無農薬、無肥料でリンゴを育てます。
木村さんのリンゴは「リンゴ本来」の味がするそうです。
果たして、私たちは自らの内なる生命力をよみがえらせることができるのか?情報化の中で、ともすればやせ衰えていく私たちの生きる力。木村さんのリンゴが私たちに突きつける課題は大きいと、あとがきで茂木健一郎さんが語っています。
私の「本屋さん、ぶらり」再開です。
2月に入ってから真冬日が続きました。
アルバイト先の事務所は築40年ほど経過している建物で、真冬日になると大変です。
まずは湯沸かし器。
前日に落とした水の栓を開けても、水は流れてきません。
温度計で室温を確認すると、マイナス3℃。
部屋の中なのに氷点下です。
電気ストーブで部屋を暖めて室温がプラスになると水が出てきました。
水が出たと思ったら、排水溝が凍っていて台所の流しに水が溢れてきます。
そこで流しの下の扉を開けて、電気ストーブで暖めます。
そうすると、緩やかな速度で水が排水溝に流れ落ちました。
また2台ある石油ストーブの内、奥の方にある石油ストーブは寒すぎてスイッチを入れるとエラーになります。
石油ストーブを30分ほど電気ストーブで暖めてから点火します。
真冬日には電気ストーブが大活躍です。
そしてトイレ。
前日に水を落とし不凍液を入れて帰るのですが、翌朝は不凍液が凍っています。
不凍液のボトルにはマイナス35℃まで凍らないなんて書いてあるのに、凍っています。
お湯を沸かして流し込むと、氷の塊が浮いてきます。
気長に何度かお湯を流し込んで、やっと水が流れるようになります。
一昔前はこのような生活が日常的だったのだろうなぁと思いながら、湯沸かし器とトイレの間を往復しました。
蛇口をひねるとお湯が出て、朝起きるとタイマーでストーブが点いていて暖かい、便利で快適な生活に感謝です。
現在の住宅は気密性にも優れているせいか乾燥します。
加湿器もありますが、家では毎日のように洗濯物を干して湿気を出しています。
乾燥している部屋よりも湿気があるほうが暖かいような気がし、ある日洗濯物を干しながら、人間関係も湿気があったほうが暖かいかしらと考えました。
とかく煩わしい人間関係が嫌で、人づきあいが浅くなりがちです。
でも一人で生きることはできません。
以前作った「こころの郷」のリーフレットに載せた言葉を思い出しました。
すっかり忘れていた言葉です。

ある美容部員のお話によると、人間には美しくなろうとする力が備わっているそうです。
その力を引き出すには、①肌に潤いを与える、②老廃物を取り除く、③血行を良くする、ことでその中でも特に血行を良くすることが一番肝心だそうです。
そのお話を聞いたとき、こころも一緒だと感じました。
こころの美しさを引き出すには、①心に潤いを与える~芸術や文化に親しむ、②心の老廃物(ストレス)を取り除く~リラックス、心理療法、カウンセリングなど、③血行(関係性)を良くする~人との触れ合い、で一番大切なことは繋がりを感じること、人や自然やすべての存在との触れ合いだと思います。
このような言葉をリーフレットに掲載していました。
人間関係の距離感って難しいですが、自分の人生の座標軸からぶれない関係性を保っていきたいと思います。
2月2日は市立札幌病院前庭で「ホスピタルスノーふれあいフェスティバル」が行われ、ボランティアで参加しました。
例年この時期は冷え込みが厳しくキャンドル作りには最適な環境が整いますが、さすがに寒さは身体に堪えるため、ホッカイロを背中に貼り厚着をして作業に挑みます。
まずは雪だるま作り。
以前は一つ一つ手で丸めて作りましたので、出来あがった雪だるまが不ぞろいでいびつな形になって大笑いをしたりしたものです。
今はホーマックなどで「雪だるまの型」を売っているそうです。
この雪だるまの型に雪をつめ、二つ合わせて雪だるまを作ります。
そうすると均整がとれていて美しい雪だるまが出来上がります。

キャンドルの器作りは、バケツの底にペットボトルを張り付けたものを使います。
こちらは今でも手作りです。
バケツに雪をつめ、水で固め、ひっくり返すとキャンドルを入れる器になります。
簡単なようで難しい。
雪のつめ加減や水の量で、ひっくり返した時に壊れてしまうこともあります。

一日がかりで作ったキャンドルに火を灯すと別世界となります。
「さっきまで冷たい感じがしていたけど、火を灯すと暖かくなりますね」
一緒にボランティアした若者が語りかけました。
オレンジ色に揺らめく炎が優しさをくれます。
「みんな持っているんだよね、この光」と心の中で思いながら、しばらくの間たたずんでいました。

2月9~10日は医大病院前庭で「スノーフェスティバル」があります。
19時頃まで火が灯っていると思いますので、お近くにお越しの際はお立ち寄りくださると嬉しいです。
しばれるわぁ~
あまりの寒さに思わず口ずさんでいました。
日中の気温がマイナスの日々が続いていた夕暮れのことです。
しばれるって北海道弁?
冷え込むでもないし、寒いでもないし、肌がピリピリ凍りつくような寒さは、やっぱり「しばれる」という表現が的確です。
中学生のとき、秋田から札幌に転校してきました。
次は体育の時間という時にクラスメートが、「こわいから休むわ」と言いました。
こわい?
おそろしいことでもあった?
「こわい」とは疲れたとか、だるいとかいう意味だと知ったのは、随分後からです。
今では何気なく使っている言葉も、札幌に来た当時は驚きの連続でした。
手袋をつける、手袋をはめるが、手袋をはく。
ゴミを捨てるが、ゴミを投げる。
ものを交換するが、ばくる。
だんだんと札幌の生活に慣れてきた頃には、学校帰りに「したっけね~」と手を振って友達と別れていました。
この「したっけ」も北海道弁のようです。
以前勤めていた会社で仕事が立て込んで大変になると、いつも「ゆるくない」と言う人がいました。
ニコニコ笑いながら、「ゆるくないなぁ」と。
つらい、しんどい、大変なことを「ゆるくない」と言います。
「しんどい」なんて言われると、その言葉に押し潰されそうになりやる気が失せますが、「ゆるくない」と言われると、まだまだ余裕があり頑張れるような気持ちになるから不思議です。
どういたしましてという意味で「なんもさ」と言います。
「今回はいろいろ世話になったね」
「なんもさ」
なんて言われると、ほっとして気持ちが楽になります。
寒い冬を迎えるたびに、どんな風にして寒さをしのいだのだろうと北海道を開拓した人々のことを考えます。
言葉は文化だと言います。
開拓時代のつらさ、きつさを跳ね除ける力と一緒に苦労している仲間を暖かく包み込む心が、北海道弁になったのかもしれません。
そういえば辛抱という字は、つらさを抱くと書きます。
北海道の人は、おおらかだと言われるのは、冬の寒さを受け入れている強さと柔軟性があるからかもしれません。
最近は自分の使っている言葉が、標準語なのか北海道弁なのか、わからなくなってきました。
そろそろ道産子と言われてもいいしょ。
日曜日の朝、目が覚めるといつもよりも暖かく感じ、窓に目をやると曇り空。
そして窓の外をのぞいて、びっくり!
明け方に雪が降ったらしく、45センチは積もっています。
テレビのニュースでは札幌市の積雪は15センチと言っているが、とんでもありません。
一晩でいっきに降った雪は、容赦なく雪山と化しています。
暖かいと感じたのは、積った雪に囲まれていたからかしら。
そういえば子どもの頃に作ってもらった"かまくら"の中は暖かくて心地よかったです。

さあ、雪投げの始まりです。
雪を投げるといっても投げる場所もなく、融雪溝で雪を溶かすしかありません。
やってもやっても積った雪を見ると途方に暮れてしまいます。
「少しずつ降ってくれるといいのに」と思っても自然相手ではどうすることもできません。
「そう、自分は変えられるけど相手は変えられない。
仕事が出来るとか出来ないとかではなく、つまるところ人間関係なんだよね。」
とある人が語った言葉を思い出しました。
雪は降った後すぐに投げないと、固まってしまい重くなって投げづらくなります。
日々起こる感情もため込むと、固まって重くなります。
出来ればその日のうちに感情を発散するのが一番です。
感情を発散するといっても人や環境のせいにするのでは解決しません。
自分なりの感情発散方法を持っていると幸せです。
歌を歌う、踊る、絵を描く、アロマを焚く、走る、映画を見る、お笑いを見る、などなど。
今の私のお気に入りの方法は、
自分が金色の光に包まれているとイメージすることです。
カラーの講座で教えてもらったピンクの瞑想法(ピンク色に包まれていると思って瞑想する)を金色に変えてみたら心地が良かったので、それからは金色にしています。
道具も必要ないし、その場で出来るから簡単です。
そうすると出会った人や出来事のことを、自分の器を大きくしてくれる大切な存在と思えるから不思議です。
札幌には路面電車が走っています。
「4丁目プラザ前~すすきの」の区間を折り返し運転しています。
地下鉄が開通する前は、北24条や琴似まで走っていたと聞いたことがあります。
そんな時代のことを懐かしげに話す人々も、電車は遅いから...と言って、乗ることを敬遠します。
確かに遅い~朝の通勤で電車を利用するようになって最初に感じたことです。
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン
時速30キロで走る電車の速度に慣れるまでには時間がかかりました。
なんだか時代がタイムスリップしたみたいです。
のんびりと窓の外の風景を眺めることが朝の日課となりました。
せわしなく混雑している地下鉄から電車に乗ると、ほっとしている自分がいます。
電車の幅は地下鉄よりも狭いです。
座席は向い合って座るようになっていて、吊革につかまって立っている人がいると、歩くスペースが無くなります。
電車を降りるときに、すみません、すみませんと言って譲り合いながら進むのも慣れっこになりました。
信号待ちで停留所に電車が止まっているときに、電車に乗ろうと走って来る人がいるとドアを開けてくれます。
そして次から次へとドアを開けるものですから、青信号になっても発車できません。
そんな風景も微笑んで見ることができる余裕ができました。
今日は運転手さんの真後ろの座席が空いていたので、そこに座りました。
運転手さんと同じ目線で進行方向の景色を眺めることができます。
巧みにハンドルを動かす運転手さんの姿を眺めていると、男の子が将来は運転手さんになりたいと言う意味が解ったような気がします。
それほど、ハンドル操作は巧みでした。
線路の上を走る路面電車。
線路があるということは走りやすいに決まっていると思い込んでいた自分が間違いでした。
路上駐車している車を追い越すために線路上を車が走る、道路を横切ろうとしている車が線路の上で立ち往生している、大型トラックが寄ってくるなど。
かなり危険に満ちたものでした。
人生も安定したレールが敷かれていると思いきや、会社が倒産したとか病気になったとか、子どもが引きこもりになったとか親の介護だとか。
そんなときのキーワードは立ち止まって待つということ、今の自分を見つめ直してみること、ゆっくりと進むこと。
それはまるで路面電車のような。
その時間はこころを豊かにする時間へと変わり、やがては力強い歩みへと変わります。
生きることに合理化や効率化は必要ありません。
じっくりと人生を味わう、そんなことに想いを馳せながら路面電車に揺られていました。

明けましておめでとうございます。
コラナビ北海道のコラムを再開してから一年。
お読み頂いている皆様に支えられ、
書き続けることができました。
ありがとうございます。
今年もつたない文章でつれづれと、
書き記すことになりますが、
読んで頂けると嬉しいです。
新年を迎えるにあたり、ここ数年行なっていることは、大晦日に北海道神宮にお礼参りをすることです。
新年にお願いをしておきながら年末にお礼をしないのは変だと、ある年ふっと思いました。
それから年末に感謝のお礼参りをすることにしたのです。
一昨年お礼参りをしに北海道神宮に行ったとき、大祓(おおはらい)という儀式に偶然遭遇しました。
一年間の穢れを祓い、清めるという儀式です。
一般の参拝者も儀式に参列し大祓をすることができます。
そこで昨年末の大晦日も、この大祓儀式に間に合うように北海道神宮に参拝に行きました。
とくに信仰しているというわけではありませんが、なんだか清々しい気持ちになるから不思議です。
それから「こはくの湯」の温泉で身体を清めました。
気を清めた後は身体を清める。
生きているといろんなことが起こるけど、それでも年越しという「今ここ」にいることが出来ることに感謝です。
子どもの頃は秋田の田舎に住んでいました。
年末になると土間で餅つきが行なわれ、家の隅々、戸棚の中にまでお供え餅が置かれました。
12時になると新しい衣服に着替え、村の神社にお参りに行きます。
神社の鐘をガラガラと鳴らすと、今までの嫌なことも消え去って、新しい年に気持ちがワクワクしたものです。
自分の左手と右手を合わせて深く祈る。
やがてその手は誰かの手と合わさり、また誰かの手と合わさり繋がっていく。
デジタルな世界になって、昔ながらの儀式が失われつつあります。
まずはシンプルに素直な気持ちで、自分の手と手を合わせることから始めてみると、なにかが生まれる気がします。
『あらゆるものがつながっている。私たちがこの命の織物を織ったのではない。私たちはその中の一本にしか過ぎないのだ。』
アメリカインディアンの言葉です。
一本欠けても織物は完成しません。
人として生まれたということは、命の織物に参加していることに繋がるのです。
私たちは命を表現するために生まれてきました。
毎日楽しみにしている番組、それはNHK連続テレビ小説ウェルかめです。
いつもはウェルかめを見たあとチャンネルをすぐにかえるのですが、その日はチャンネルをかえずにいました。
続けて放映されていたのが、サンティアゴ青春巡礼~高校生9日間250㎞を歩くという番組でした。
スペインの高校生達が聖地サンティアゴまで250㎞の距離を9日間かけて歩くというドキュメントでした。
なにげなく見ていたら番組は3日目の朝の場面で、3日目に歩く道は峠越えで一番険しい道のりのようです。
朝の朝礼で先生が生徒達に、「あるカエルは歩き続けることに意味はないとわかり歩くことを止めた。またあるカエルは意味はないけど、たどり着いたら何かあるかもしれないと思い歩き続けた。」と語りました。
たまたまそんな番組を見た翌朝、私は仕事に向かう道を歩いていると、カラスがカアカアと騒いでいました。
しまった!今日は燃えるゴミの日だった。
案の定、ゴミステーションにカラスがいました。

苦手なカラスを受け入れたといっても半径2m以内に近づくことはできません。
まわり道をすると遅刻してしまう、どうしよう。
困ったなぁと思いながら立ち止まっていると、向かいからおじさんが歩いて来るではありませんか。
おじさんが通るとき一緒に通り過ぎようと思い、勇気を振り絞って私は歩き出しました。
と、おじさんがゴミステーションに近づいた瞬間、カラスは飛び立ちました。
おじさんとすれ違ったとき小声でありがとうございますとささやき、難関を乗り越えたことが嬉しくてたまりませんでした。
おじさんは私にとって意味のある行動をしてくれました。
でも、おじさんはそのことを知りません。
おじさんには日常のことであっても、私には特別なことでした。
意味があるとかないとかは、一元的ではないと思います。
人生は「たまたま」の連続です。
たまたまテレビを見た、たまたまおじさんが来た・・・。
この偶然が、意味のあることに繋がっていくのです。
そんなことを考えながらカラスが飛び交う道を通り抜け、遅刻することなく事務所に到着することが出来ました。
ある地区で行われている座禅の会に参加してきました。
地区の人々が集い合う場を創りたいと願っている民生委員さん達が企画した会です。
たまたま同じ地区に座禅を教えている方がいて、宗教色はまったく無く、地区にある会館で行っていました。
民生委員の方のお仕事は、自宅に引きこもっている方の支援をすることだそうです。
座禅の会をきっかけに外出ができるようになり、いろんな人と触れ合うことを経験してもらえたらと企画したそうです。
やがては座禅のほかに、英語の先生だった方には英語を、海外旅行大好きなおじいさんには旅行記を、それぞれ地区の住人の方が話をできる場に繋げて行きたいと、将来の夢を語る町内会長さんの目はキラキラと輝いていました。
「この地区に住んでいる人は幸せですね」と私が言うと、
「そう!そう言ってもらえる地区にしたいのです」
何歳になってもエネルギッシュな方々に敬服です。
そのような方々から今度は、私に質問の嵐です。
心理療法とは心を癒し...人は悩みがあるとそればかりに囚われて他のことが見えなくなりがちですが、心をリラックスすることで周りのことがよく見えるようになります。
一つのことに囚われている。あれっ、なんだか今の私じゃと思いながら話を続けました。
コラージュは雑誌を切り貼りすることです。
「では出来上がった作品を見てもらって教えてもらうのですね」との質問。
「いいえ、自分で気づくんです」
「えっ、自分で気づけるのですか?」
「そう、自分で気づけるんです」
そろそろ座禅を始めようか~との呼びかけで私達の会話は終わってしまいました。
最近フランクルに傾倒しているのは心の闇が深くなっているという証拠です。
そんなときは必ずフランクルの本を読む癖があります。
でも民生委員さんとの会話で、一つの表面的なことに囚われている自分がいることに気づかせていただきました。
じゃあ、本当は何をしたいの?何をしたら満足なの?更に闇は深まりました。

そうそう私にはコラージュがあるじゃないのっと思い立ち、自宅でコラージュを作成しました。
なにげなく切り取った切り抜きを貼り合わせてみると、そこには本当の願いがありました。
人との触れ合いが自分の存在を確かなものにしてくれます。
人間の一つ一つの細胞が代理不可能であるのと同じく、人は共同体のなかでこそ唯一性があるとフランクルは言っています。
ミュンヘンクリスマス市で素敵なカードを見つけました。
私信良身、私を信じると身体が喜ぶ。
唯一の存在、それが私達です。
その地との出会いは今から3年前の2006年のことでした。
小川が流れ、山ブドウや野イチゴ、こくわの木があって、山道を登ると白樺林が美しく並んでいます。
子どもの頃に眺めたことのある、どこか懐かしい風景です。
この景色の中にたたずんでいると、どこかに置き忘れてきた自分を取り戻すことができます。
それは「いのち」との出会いと言えるのかもしれません。
そんな魔法にかかることが出来る素敵なところです。
キタキツネを見つけてキャッキャと騒いでいると、「鹿も来るんだよ」と得意げなおじさんの声がします。
おじさんは子どもの頃からここに住んでいます。
子どものように目をクリクリとさせるおじさんの畑を横切っていくと、何本かの栗林があります。
「来年になったら実をつけるから、栗拾いにおいで」
またまた得意げなおじさん。
栗は一年置きに実をつけるそうです。
しかし翌年2007年の秋は、私ごとの事情で外出もままならず、栗拾いの約束を果たすことはできませんでした。
そして2008年に訪問したときのおじさんの言葉。
「去年は栗がたくさん実をつけたよ。来年になったら実をつけるから栗拾いにおいで」
今度こそ約束を果たそうと、ワクワク楽しみに2009年を迎えました。
ところが諸般の事情が絡み合い、やっと訪問できたのは初冬を迎えた11月30日でした。

もう栗はありません。
「なんだ~今頃来たのか~栗は終わってしまったよ」
ちょっとむくれた表情のおじさん。
ごめんなさい、また約束を果たすことが出来なかった。
小屋からなかなか出てこないおじさんを見に行くと、
「これ、持ってけ」と大きな袋を渡されました。
その袋の中には、秋に採れた栗がたくさん入っていました。
「来年は実をつけないから、再来年栗拾いにおいで」
いつもの得意げなおじさんに戻っていました。
栗は一年おきに実をつけるそうです。
遠い古の時代から禍福はあざなえる縄の如しという言葉があります。
良い時もあるし良くない時もある、より合わせた縄のように交互にやってくる。
心理学者フランクルは、苦悩で意味のある人生を実現できると言っています。
さまざまな人生の可能性が制約を受けて、絶望とも思える状況に置かれたとしても、その制約に対してどのような態度をとり、どのようにふるまうか、その苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点において価値を実現することが出来ると。
実をつけない年、栗の木は、どんなふうに過ごすのかなぁ~と思いながら、栗ごはんを頂きました。
仕事帰りに乗る路面電車はかなり混んでいます。
途中下車するには、人波をかきわけないと前に進めません。
降りるときの準備を早目にしようと思い、何枚かあるウィズユーカードを取り出して、残高が残っているカードを確認しました。
そして降りるときにウィズユーカードを機械に通すと、なななんと、130円不足との表示。
あれ、残高あったはずなのに・・・。
あわててバッグの中の財布を探すと、こんなときに限って財布がすぐに見つからないものです。
運転手さんに、横によけて降りる人を通してなんて言われて、はずかしい。
やっと財布が見つかり清算できると思って中をのぞくと、小銭は50円玉2枚のみ。
1000円札を両替し130円を支払って、すみませんと言って電車を降りました。
思い起こせば、バス代はウィズユーカードに印字されないから、きっとバスに乗ったときのカードが残っていたのだと思います。
ちゃんと準備したのに...と悲しい気持ちで帰り道を歩いていると、上空にヘリコプターが飛んで来ました。
近くに医大病院があるのでヘリコプターはよく飛んでいて、普段はあまり気にならない音なのに、傷ついた心にドンドンと響きます。
うるさいなぁ~と思いながら空を見上げてみると飛んでいたヘリコプターの真横に、美しく輝く月がくっきりと浮かんでいました。
澄みきった冬の夜空に浮かぶ月は本当に奇麗です。
そうだ、月光浴しながら歩こうっと。
なんだか幸せな気分で家路につきました。
こんな出来事がなかったら、美しい月に気づくこともなかったし幸せな気分になることもなかったし、そう思うと恥ずかしく思い出したくない出来事も受け入れることができます。
そうやって一つ一つの出来事が自分の人生の一部となっていくのだと思います。
心理学者フランクルはタゴールの詩を引用しながら、幸せは目標ではなく結果にすぎないと言っています。
私は眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働く-すると、ごらん、
義務はよろこびだった。

今年はイクラのしょうゆ漬けをたくさん作りました。
お正月用に冷凍保存しています。
まさか、しょうゆ漬けになるとは思いもしなかったイクラが、お正月にはみんなの喜びとなります。
(なんかちょっと違うな)
高齢者施設のエレベーターに乗ったとき、施設の職員の方と入居者の方が乗ってきました。
入居者の方が職員の方に「今日のうどん美味しかったわ」と笑顔でお話をされました。
その言葉に職員の方もニコニコと笑顔で答えていました。
毎回うどんばかりで飽きたという愚痴をいつも聞かされていた私には、その方の笑顔は輝いて見えました。
歳を重ねるごとに、その人の生き方が表情ににじみ出てきます。
タイタニックという映画があります。
豪華客船タイタニックの沈没をテーマにした映画で、レオナルド・ディカプリオが出演して話題になった映画です。
一番印象に残っているシーンは、音楽隊の方々が演奏を始めるシーンです。
沈没寸前まで演奏していた音楽隊に解散許可が出て一度解散するのですが、一人が演奏を始めると他のメンバーが彼の元に集まり再び演奏を始めるシーンです。
パニック状態で逃げ惑う人々や救命ボートに飛び乗る人々を背景に、優雅な態度で音楽を奏でるシーンは心に響くものがあります。
先日テレビのリモコンでチャンネルをあちこち押していたら、NHKの「課外授業ようこそ先輩」という番組に行き当たりました。
ちょうど瀬戸内寂聴さんが、高校生達と幸福について語り合っている場面でした。
高校生達は、今まで聞いたことのない幸福論を語る寂聴さんに戸惑いながら悩みます。
ある女子高生が質問します。
「なんで自殺したらいけないの?」
それに答える寂聴さん
「いただいた命を、絶ってはいけません」
・・・いただいた命・・・
「でもつらく苦しいときがある」
「神様は乗り越えられない試練は与えないのですよ。私はこの言葉に救われました。」
心理学者フランクルは、このことを「態度価値」と言っています。
創造価値(11月5日号「居場所と出番」)や
体験価値(11月19日号「窓辺から」)が
実現できない状況に置かれたとしても人は、その状況に対してどのような態度をとるかという選択の自由は残されていると。
運命としかいいようのない出来事は次々と起こります。
正直いって、しんどいよ、フランクルさん・・・と言いたくなるほど、押しつぶされそうになるときがあります。
それでも生きる価値はあります。
いただいた命に応えていく、そう命は答えてくれるのを待っている...それに答えていくのが生きるということだと思います。
だから生きていること自体が意味のあることなのです。
こんなことを考えていたら素敵な絵葉書が届きました。
絵葉書に書かれていた言葉は「微笑みから神のあたたかさがこぼれる...」
いつの間にか、施設で出会ったおばあさんの笑顔を思い出していました。
今住んでいるマンションに越して来て10年になります。
住んでみてから一番のお気に入りは、窓辺からの景色です。
入居してから感じる四季折々の景色は、言葉で言い表すことができないほど感動的です。
なかなか写真に収めることができず、ただ記憶として残っていました。
最近、携帯の写真画像を整理していたら、ある写真が出てきました。
画像はあまりよくありませんが、窓辺から写した夕日です。

この夕日が目に飛び込んできたときは、この瞬間に立ち会えたことが嬉しくて、ただこの瞬間生きていることが幸せで、ゾクゾクっとしたものです。
そして、もう一つ写真画像が残っていました。

その日一日起こることを考えていたら、ちょっと憂鬱な気分になっていたときです。
なにげなく窓から外を眺めると、虹が出ていました。
なんだか憂鬱な気分が一転、気持ちが明るくなりました。
大丈夫!今日は成功するわ、と。
とかく人は社会での役割がないと生きている意味がないと思い込みがちです。
(http://www.colnavi.info/magazine/yoshida/post_639.php)
それは社会という枠組みの中で生きている証を求めているからです。
ところが人は、自然の美しさに感動したり、音楽を聴いて心打たれたり、誰かを愛することができます。
社会という枠組みに限定しないで、社会よりももっと大きな枠組み、自然という枠組みの中で生きている証を見出すことができます。
このことを心理学者フランクルは「体験価値」と言っています。
自然や芸術は感動してくれる人間を待っている...それに答えることは意味のあることです。
感動するということは、生きる意味のあることで、生きている証です。
そして人を愛するということも、もちろん生きる意味のあることです。
愛されることを待っている人が必ずいるはずです。
野菜を育てることに喜びを感じた今年、更なる畑地を求めて、ある荒地を開墾することにしました。
その土地はすべて笹で覆われています。
北海道開拓精神をDNAに持つ道民としては機械を使わず、鍬(くわ)、スコップ、カマ、剪定鋏(せんていはさみ)などを使って手作業です。

まずは、地面いっぱいに広がった笹を刈ります。
笹はたくましく地中深く根をはっています。
笹の根は上下、左右と縦横無尽に地中深く張り巡らされており、根を掘り起こすのは今のところ無理です。
そこで笹の葉の光合成を止めるために緑の葉を根元から刈ります。
そうすると、光合成ができなくなり葉が成長しなくなるそうです。

そして穴を掘り、刈った笹を埋めます。
埋めた笹は冬の間、雪の下で堆肥となります。
ところが、この作業は簡単にはいきませんでした。
穴を掘ると、ゴロゴロと石ころがたくさん出てきます。

また笹の根っこがたくさん出てきます。
それをどかしながらの作業はゆるくありません。

やっとの思いで穴を掘りました。

そして笹を埋めて完成です。

今年の作業はここまでです。
来春の雪解けを待って更なる開墾作業が始まります。
荒れた土地を耕して畑にするには時間と労力が必要です。
ところで「かいこん」と文字を打ったら、間違って悔恨と出てきました。
そこで悔恨を辞書で調べてみると、過ちを後悔して残念に思うこととありました。
悔恨の日々を過ごすと心が疲れてきます。
疲れた心を穏やかな心にするにも時間と労力が必要です。
土地を耕すのに鍬(くわ)が必要だったように、つらい過去を思い出す必要があるかもしれません。
耕した土地に新しい土と肥料を入れると蘇るように、つらい過去を思い出した心にも栄養と愛を与えると蘇ります。
土地と心を一緒にするな!と言われそうですが、人も自然も地球の一部であることは確かです。
いつの間にか開墾の記事を書きながら、こんな事を考えていました。
来年はこの土地で大根やジャガイモが育つといいなぁ~
社会に認められたいという友人の言葉。
自分で自分を認めたら、それでいいじゃないのと言葉を返した私。
う~ん、響かない...。
それからというもの「認められる」ということを考えるようになりました。
そんなある日、鳩山首相の所信表明演説を新聞で読んで、これだ!と思いました。
それは「居場所と出番」という言葉です。
看護師をしている友人の話。
夜になると、うめく患者さんがいるそうです。
当直の夜、その患者さんがいつものように叫ぶので、その患者さんに尋ねたそうです。
「もしかして和歌をされていました?」と尋ねたそうです。
友人は人の特徴をつかむのが得意です。
患者さんは和歌ではなく、俳句の先生をしていたそうです。
一目置かれた先生という立場だったのが入院して一転、他の患者さんと同じようにされることは、つらく憤りを感じていたことでしょう。
自分の存在をわかってくれた人がいる。
自分の価値を認めてくれた人がいる。
それから、その患者さんは静かな夜を迎えているそうです。
また、知人の母親の話。
「今日はお仕事に行くの」と言ってディサービスに出かけるそうです。
ディサービスでは、お手玉を作っていますが、それが自分の仕事と思っているようです。
そのディサービス施設が見つかるまでは、ディサービスが嫌いだったようです。
みんなで遊戯をしたり、歌を歌ったりする...そのようなディサービスを嫌がる高齢者は結構多いです。
お手玉を作って誰かの役に立つ。
そこに行くと自分の価値が認められる。
知人の母親は毎回楽しくディサービスに通っているそうです。
社会の中で生きているという証。
それは居場所があるだけではダメだということがよくわかります。
社会での出番が必要だということです。
それは心理学者フランクルが提言する三つの価値のうちの一つ「創造価値」と言われているものです。
あとの二つは「体験価値」と「態度価値」です。(この価値については後ほど...)
こころの郷では居場所つくりを心がけてきました。
今まで何人もの人達が心を休め、そして自分の出番を見つけて旅立って行きました。
これからは居場所つくりと合わせて、出番つくりもしたいなっと。
おせっかい虫がうずきだしたところです。

久しぶりに自分のコラムを読み返していたら、8月28日にコメントを頂いていました。
ありがとうございます、気がつくのが遅くて、ごめんなさい。
そう思いながら、コメントに返事を書いて投稿すること...1時間。
何回チャレンジしても私の投稿は受け付けては貰えません(涙)
そこで、今回のコラムに書かせて頂くことにしました。
Hさんからのコメントです。
自分はブロッコリーが嫌いです。
「ホンットに美味しいから!」
「騙されたと思って!」
何度も騙されました。
こんな自分にも、ブロッコリーの美味しさが解る時が来るのでしょうか。
意志の力は、ブロッコリーのために使いたくないなぁ...。
何度も騙されて、本当に意志の力は使いたくないですよね。
ブロッコリーが嫌いな人は結構多いです。
嫌いなものは嫌いで大丈夫。
無理に好きになろうと力むと、心のバランスを崩してしまいます。
嫌いだと思いながらブロッコリーを食べることは、車のブレーキとアクセルを同時に踏んでいることと同じで、まったく前には進めません。
食べるというアクセルと、嫌いだというブレーキです。
ブレーキに強い力が働くと車がスピンしてしまうように、騙されたという思いが強くなると更に嫌いになります。
ブロッコリーと聞いただけで、「それ嫌い!」と心がざわめくようであれば、食べないほうが幸せかもしれません。
ブロッコリーと聞いても、「あ~それ嫌いなんだ」と軽く受け流すことが出来たならば、ブロッコリーの食べ頃です。
人は何かに囚われると本質が見えなくなりがちです。
たとえば、黄色いバナナを赤色のメガネで見ると、オレンジ色のバナナに見えるように。
その物事に囚われるということは、心に力が入っていて心が自由でないということになるからです。
ブロッコリーと聞いただけで、心がざわめくようであればブロッコリーに囚われている状態です。
嫌いになる原因はいろいろありますが、過去に食べたとき美味しくなかった、青臭さが苦手、形が嫌い、無理矢理食べさせられた、などなど。
どうしても美味しさが解りたいと思うならば、過去の嫌な経験を手放してみるといいと思います。
それは黄色いバナナを透明なメガネで見るということです。
そうすると、解りたいという好奇心だけになり、自然と意志の力が湧いてくるから大丈夫。
ブロッコリーの本当の美味しさが解るときは、そんなときです。
あ~美味しいブロッコリー食べたいなぁ~
今日は偶然にも、めったに買わないブロッコリーをスーパーで買ってきていました。
「ゼッケン番号3165の吉田さ~ん」
キャ~~~~当たったぁ~~~~
日曜日に行われた北海道ロードレース大会の抽選会でのことでした。
北海道ロードレース大会の名物は、走り終わったあとに行われるお楽しみ抽選会で、今回は30回記念とあって、いつもより景品も多かったようです。
今年のマラソンの締めくくりとしてプレゼントを頂いたようで嬉しかったです。

今年はよく走ったなぁとちょっと感慨深げ。
それもそのはず、小学校の頃の一番の苦手が「かけっこ」でした。
体育の時間は大嫌いで時々ずる休みをしていたほどです。
それでも外遊びは大好きで、放課後は日が暮れるまで外で遊んでいたのですが。
運動会が近づくと毎日が憂鬱でした。
そんな私がマラソンをするなんて、信じられない!
不思議なことに今年は、小学校の頃の苦手なことを克服した年となりました。
2番目に苦手なことは「絵を描く」でした。
外で行う写生会は感動した景色をありのままに描きたいのに、思うように描けない自分がみじめで嫌いでした。
そんな私が絵を描くことになるとは、信じられない!
あまり考えもしないで友人に誘われるままに紙芝居を作ろうという講座に参加しました。
描いた絵は幼稚園児の絵のようでしたが、先生から褒められたり、みんなの前で発表して拍手を受けたりしたら、なんだか達成感が湧いてきて嬉しくなりました。
そして3番目に苦手なことは「作文」でした。
作文用紙1枚を埋めるのが、どんなに苦しかったことか。
そんな私が毎週このコラムを書き続けているなんて、信じられない!
いま考えてみると、「かけっこ」も「絵を描く」ことも「作文」も、自分を表現することです。
良い子?を演じていた私は、ひと目を気にしていたのかもしれません。
早く走らなければ、上手に描かなければ、うまく書かなければと、先生や周りの大人達の評価を気にしていたのかもしれません。
だから自由に表現することができなかったのでしょう。
「私、変われるよね」と聞かれることがあります。
「変われるよ。でも変わるんじゃなくて、ほんとうの自分になるんだよ」
こう答えると、たいていの人はポカ~ンとします。
変化するごとに、自由な自己表現ができるようになります。
苦手3兄弟を克服?した私は、偶然名前も変わりました。
ますます自由度1000%です。
人生はたまねぎの皮をむくようなものと、あるテレビドラマでのせりふ。
一皮一皮泣きながら皮をむくと、そこにあるのは、ほんとうの自分です。
そう思うと、皮をむくのが楽しくなるから不思議です。