重田健太郎。
彼と始めて会ったのは自分が医者になって3年目、1997年4月1日。
場所はICUでした。
前日に緊急手術が終わったばかりで、頭にはガーゼとテープが貼り付けられ点滴や心電図、脳室ドレナージなど複数のチューブやコードに繋がれている状態でした。
「健太郎君、よろしくね。今日から先生が健太郎君の担当になりました。」
病名は脳幹部の悪性脳腫瘍。当時6歳で小学校に上がる間際の発症でした。
人見知り、というか極度の照れ屋。何か問いかけてもその度お母さんの顔を見上げてはコソコソと耳打ちしてお母さんが代わりに答えるという始末。
この日から彼との共同戦線が始まりました。
脳腫瘍の治療というのは肉体的にも精神的にも想像を絶する苦しみの中で進められていきます。
辛いリハビリ。抗がん剤による吐き気・嘔吐、脱毛。数回に及ぶ手術。
それでも出てくる体の不自由。
この治療が終われば治るのかというと決してそうではなく、定期的に続けられるのです。
辛さのあまり椅子を投げつけて病棟から脱走しようとした事も数知れず。
自分の感情を抑えることができず、泣きながらお母さんにやつ当たり。
そりゃそうだよ。だってまだ小学校2年生なんだもの。
けど、彼は頑張った。本当に頑張った。凄く偉かった。
1999年に自分の都合で脳神経外科を退局し、札幌に帰ってきてからも、
まるで遠距離恋愛のように電話や手紙で連絡を取り合っていました。
2002年2月
健太郎の担当医(当時の直属の上司)から電話が掛かってきました。
「悪いんだけどさ、健ちゃんに電話してやってよ。ちょっとヤバイんだ。」
「マジっすか?だったら俺、行きますよ。」
急いで飛行機のチケット取って、ホテル予約して、上司に断りいれて緊急の1泊2日出張。当然経費下りず。
病院到着時、とっくに面会時間は終わっていますが勝手知ったる病棟。
夜勤の看護婦さんも顔馴染みばかり。
「えっ!?先生!何でここにいるの?」
「もしかして、健ちゃんに会いに来てくれたの?」
「わぁ、先生、おひさしぶりぃ。健ちゃん喜ぶよぉ」
「こっちこっち!健ちゃんのお部屋!」
荷物取り上げられて、引きずるように連れて行かれて、部屋に入った瞬間
眼を丸くしたのはお母さんの方でした。
それから時間にしたら2時間ほどでしたが、健太郎から色んな話、辛かった事、悲しかった事、頑張った事、数少ないけど嬉しかった事、涙ながらにいっぱい話を聞かせてもらいました。翌朝も一番で部屋を訪れ飛行機の時間ギリギリまで話を聞かせてもらいました。
しかし、これが健太郎と直接話をした最後でした。
2002年8月14日
仕事から帰る途中、カミサンから携帯に電話が掛かってきました。
彼女は既にグズグズの涙声。
「健ちゃんが、死んじゃったって...」
享年13歳。
3,4年しか持たないだろうとの予想を覆し、7年間彼は戦い続けました。
一時退院していたとき、彼の口からこんな言葉が囁かれたそうです。
「明後日死にたい。」
今日はもう夜遅いから、明日になってから色んな人に会って、で、明後日。
13歳のガキが考える事じゃないだろ!
お前はもっと我儘になっていいんだよ!
それが許されるくらい、お前は頑張ってきたんだよ!
もっといっぱい手紙を書いてあげればよかったな。
もっといっぱい会いに行ってあげればよかったな。
彼の精神力。
ギリギリどころか限界を超えても頑張ろうとする気持ち。
最後になっても周りの人間を気遣う気持ち。
僕の最高のお師匠さんです。

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