第21回は映画『海炭市叙景』(かいたんしじょけい)のロケ現場リポート
を書きました。実に二十数年ぶりの函館再訪記―。
以前訪れたのも、函館生まれの原作者佐藤泰志(さとうやすし)の小説に
描かれた町を実際に歩こうと思ったからなのですが、このときにはまだ、
『海炭市叙景』は書かれていませんでした。
寝台車に乗るお金はなくて、早朝、函館駅に着く鈍行で行きました。佐藤
泰志の両親も働いたという朝市で朝食をとり、市電の一日乗車券を使って
作家ゆかりの地を見て歩きました。函館西高にも行きました。思えば若く
ミーハーな旅でした。
今回も撮影がなかった日には、小生、同じような場所を巡り歩きました。
違うのは、函館市中央図書館の郷土資料コーナーにも立ち寄ったことでし
ょうか。いまはここで、佐藤泰志に関する貴重な資料をまとめて読むこと
ができるのです。地元ならではの同人誌・雑誌を主に見ましたが、資料と
いうのは、書籍だけではありません。雑誌や新聞の掲載記事の切り抜き、
直筆の文字がわかる一筆箋などを、手づくりのファイルにまとめた一冊が
ありました。魅力的なファイルです。一司書として、図書館のこの仕事は
ちょっと書きとめておきたい。
さて、彼の没後10周年に、函館西高の同期生たちが中心となって編纂した
『佐藤泰志追想集 きみの鳥はうたえる』には、映画の実行委員の名前も
複数みつかりました。
70年代の初頭に、同人誌『黙示』の仲間でもあった西堀滋樹さん(映画化
事務局長)は、佐藤泰志が最終号に記したというこんな言葉を紹介してい
ます。
「...遊びに来たまえ。私は、とほくまでいかない。私はここにいる。 断固いる!」
西堀さんの解説によればこれは―当時『遠くまでゆくんだ』という政治色
の濃い雑誌に影響を受けていた仲間への決別の辞でもあったそうです。
「結局はケンカ別れしちゃったんだ...。」と、穏やかに語ってくれた西堀
さん。かつては彼も、佐藤泰志と同じく海を渡って早く東京に行きたかっ
た若者でした。安保の時には角材で襲撃されて病院へ運ばれたという記述
もエッセイにあります。その彼が、映画では路面電車の運転手役です。
一度は遠くへ行こうとした若者が、長じてずっとここにいる定年間近い男
を演じたのです。ロケを見守った実行委のメモにはこうあります。
「西堀さんの存在感に驚愕!」
また、中高ともに同窓だった浅野元広弁護士(冤罪とも噂される道庁爆破
事件の大森被告の弁護で知られる)は、二十歳の頃に「泰志」から聞いた
という逸話を追想集に寄せています。東京でタクシーに乗り込んで論争を
始めた二人の学生がしだいに喧嘩口論になるのを、おまえらうるさいから
降りろと運転手が一喝して途中でおろしたという話―。
学生でなく、運転手の側の心情に寄り添う人だったらしい佐藤泰志―。
「背中ばかりなのです」というエッセイにも、印象的な一節があります。
「...脇目もふらず丹念にタイルを張る職人の背とどこが違うというのだ ろうか。小説家の背中にだけ特権らしきものがあってはたまらない。」
晩年、彼の書く主人公には自分の力をゴリ押しするような人物が見あたり
ません。主人公にあるのはボディビルダーがデザインした筋肉ではなく、
脇目もふらずに働いてきた当然の結果として、否応無くついた筋肉なのだ
と合点がいきました。
翻って、我が身はどうなのか?です。映画『海炭市叙景』のチラシを撒き
始めた頃の小生は、正直なところ職場でまかされたはずのイベント準備が
思うようには進まず、何かで気持を埋め合わせたかったのかもしれない。
それは脇目ではなかったか?と自問したのは、今回の函館で地元実行委員
の映画への献身ぶりを見たからです。彼らは口々に「遠くからご苦労さま
です」と小生を労ってくれました。言われる度に、遠くから来たのだなと
小生は噛み締めました。低予算ギリギリで動いている現場に一人お客様で
いる身を恥じました。来函するよりもっと他に、違う応援の仕方があった
のではないかと―。ヒコーキ雲を見ていたのはきっと小生だけです。
20代で佐藤泰志に出会わなかったなら、もしかすると続けては来れなかっ
たかもしれない図書館司書です。小生は断固としてこの仕事に向き合って
いるだろうか?函館から戻って考えているのはそのことです。
※ブログ 映画「海炭市叙景」上映までの足跡
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 第22回 『海炭市叙景』One more
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://spiritlink.80code.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/2200
コメントする