幼い頃から日本全国を転々として過ごす。現在は北海道在住。
アジアが大好きで、中国・韓国に留学経験あり。
中国では韓国人と、韓国では中国人と主に生活していた。
輸入代行・通訳・翻訳業務。
メッセンジャーをオンラインにしていたら、韓国人の女の子Gから話しかけられた。
「元気?○○オンニも△△オッパもみんな元気だよ。みんなでよく集まって飲んでいます」
「こちらも元気だよ・・・」
と返事をしながら、相変わらずだなぁと思う。Gは私の中国留学時代のクラスメイトで、韓国滞在中は、留学時代の他の友達も一緒によくお酒を飲んでいた。前にもこのコラムに書いたことがあるが、
(第93回中国なのに韓国③お酒で仲良しに?)
彼らは本当にお酒が好きでしかも「ザル」なので、留学中は宴会ばかりだった。ものすごい量を飲むので、ひどく酔っぱらってしまう人もいたが、人に介抱してもらったり、からんだりしても、一緒に飲んでいる韓国人たちは寛大で、迷惑がる人はまずいなかった。
韓国で、Gを含める留学時代の友人たちと飲んだときのこと。お酒の強いGは、その日もビールと焼酎を混ぜた爆弾酒を何杯も飲んでいた。途中で、トイレに行くというので、私も一緒に立ち上がったが、彼女の足取りがふらふらとしている。トイレまで連れて行ったが、具合が悪そうだったので、一緒に来ていたオンニ(お姉さん)を呼んで、二人で支えて席まで連れて帰ろうとしたのだが・・・、
「大丈夫なの?もう飲むんじゃないよ」
というオンニの言葉に、酔っていたGはむっとしたらしく
「何よぅ、大丈夫だっていってるでしょう!!」
と叫ぶ。
彼女がひどく酔っているようなので、お開きにしようということになったが、お店から出た瞬間、
「うるさいなぁ、大丈夫だってば!!」
と、Gは彼女を支えているオンニの手を振り払って走りだした。オンニは彼女を追いかけて行ったが、みんながちょっと目を離している間に二人は、叫び声とともに道の真ん中で押し合い、つかみ合い(ほぼ取っ組み合い)に。Gが勢いよく腕を振り上げた瞬間に彼女の鞄がふっ飛んで、私の頭を飛び越え、中身をばらまきながら反対側の車線の真ん中に落ちた。慌ててみんなで二人を引き離す。オンニは髪の毛はばさばさ、カーディガンは伸びて、ボタンが取れていた。Gも同じような様子でおいおい泣いている。男の子の誰かが、それ以上事態がひどくならないように急いでGをタクシーに乗せて連れて帰った。
翌日の昼、Gにまた会ったのだが、どんなに気まずそうにしているかと思ったら、何事もなかったかのようにけろりとしていた。
「昨日は、いつもより酔っぱらったわぁ」
と言うだけ。オンニも
「あ~、昨日はG、酔ってたからね」
と、別に昨日の出来事を気にしているようではなかった。
やっぱり韓国人は、酔っぱらいに対して日本人より寛大だと思う。仲がよければ、酔っぱらって少しおかしいことをするくらい、大丈夫。それが心を許しているということだ、というような雰囲気がある。
私はお酒が弱いので、酔いつぶれて迷惑をかけないようにしているのだが(若いときはさまざま人に迷惑をかけてしまったので、気をつけている。)、彼女たちと飲むとき、
「これ以上飲むのはやめておくよ、迷惑かけると思うし。」
と断ると、
「大丈夫だって!何が迷惑なのよ!カコはいつも遠慮ばっかりしているよね。私たちがいるんだから、酔いつぶれてもOKよ。ちゃんと送ってあげる!さぁ、飲んで飲んで!」
と、半分怒りながら、自分たちの飲んだお猪口やグラスで飲まようとするので、(自分の飲んだグラスやお猪口で人に飲ませるときは、その人と仲良よしだという証、またはもっと仲良くしようという気持ちの表れです。)参ってしまった。私がもっと強ければ、快くおつきあいできるのだけど・・・と、いつも残念に?思うのだった。

韓国滞在中、通りを歩いていると、とにかくよく道を聞かれた記憶がある。多いときなどは、大学から家に帰るまでの十数分の間に三人に道を尋ねられた。日本で生活していると、道を尋ねられることは毎日のようにあるわけではないので始めは驚いてしまった。
滞在中に、韓国の友人と隣の市までドライブにでかけたことがあった。遠出するというのに、彼は車に地図を準備していないようだったので、場所がわかるのかと聞いたら、「大丈夫!」と一言。自信満々に言うので、行ったことがあるのだろうと思って安心して乗っていると・・・。走り始めて最初の赤信号で止まると、彼は窓を開け、隣の車線に止まっているタクシー(お客さんを乗せています。それでもお構いなしです。)に向かって大声で
「あのー、すみません!!!」
と怒鳴った。タクシーの運転手が窓を開けると、彼は
「○○は、どっち方面でしょうかね」
と尋ねた。運転手が大まかな方向を教えてくれたので、そのとおりに走る。で、わからなくなったら、また同じように道を尋ねる。時には歩いている人に聞いたり、ガソリンスタンドにわざわざ入って聞いたり・・・。彼が言うには、タクシーの運転手さんに聞くのが一番早いそうなのだが。それを繰り返し、なんとか目的地にたどり着くことができた。
「地図が無くても何とかなるんだよ。道はわかんなかったら聞けばいいのさ!」
と、彼が言うのを聞いて、韓国で道をよく聞かれる理由がわかった気がした。
日本人はナビを車につけていたり、地図を車に積んでいたり、韓国人と比べるととにかく周到だ。歩きで行く場合も、車で行く場合も、初めて行く場所を前もって調べ、駅から何分とか、○○ビルの前にあるとかある程度の情報を得てから向かう場合が多い。だから、日本にいるとそんなに道を尋ねられることがないのだ。それと、知らない人にいろいろ尋ねるのも面倒だし、相手が迷惑かもしれないし・・・という日本人特有の遠慮もあるだろう。困ったことになる前に対処しておこうとする日本人と、何か問題が起きたらその場で解決すればいいとする韓国人の違いが、「道を尋ねる」という日常的な行為にも現れているなと思った。
今回このことをコラムに書いていて、私が道を聞かれたときにしでかした小さな失敗を思い出した。まだ韓国で生活を始めて数ヶ月のころ、韓国語があまりできないときに、中年の女性に道を聞かれたことがある。答えられない私は「外国人なので、わからないんです」と言おうとして、
「スミマセン、わ、私は宇宙人なので、わからないんです・・・」
と言ってしまった。習ったばかりの「외국인ウェグギン(外国人)」と「외계인ウェゲイン(宇宙人)」を間違えてしまったのだ。両方ともウェで始まるので・・・。今思い出すと、笑ってしまう。道を聞いたオバさまも、大爆笑して去っていった。

当時留学生寮には、その階に一つしか電話が設置されていなかった。住んでいるのはほとんどが日本人と韓国人で、かかってくる電話はほぼ日本か韓国からの国際電話だった。かけてくる人は留学生の親族がほとんどで、中国語ができない場合が多い。日本からだった場合は特に問題ないが、韓国からだったら、あやふやなジャパニーズイングリッシュで対応するしかない。相手が英語が全くだめな場合もあり、そのときはなんとか相手が探している韓国人の名前を聞き取って、その人を呼びに行く。日本人の名前も韓国人の名前も、学校では中国語読みを使用しているため、(たとえば、山田花子なら「shantian huaziシャンティエン ホアズ」となる)、韓国語や日本語の名前を言われても誰のことかわからないので、お互いに母国語の名前を覚えておく必要があった。
電話が鳴ると、誰かが気づいて出るのだけど、(たいていはその電話に一番近い部屋の人が出る。)まだ中国に来て間もないある日、電話がずっと鳴っているのに誰も出ないので、「韓国からだったらどうしようかな~」と考えながら、恐る恐る電話に近づいていくと、ちょうど階段を上がってきた韓国人Jの方が早くて、彼が電話をとった。
「ウェイ?あ・・・、モシモシ、ウン、ダレサガシテルノ?S子?チョットマッテ」
日本からの電話だったようだが、彼はたどたどしいなりに日本語で対応した。彼は高校の第二外国語で日本語を選択していたこともあって、日本語の簡単な会話は理解できるし、私たちが普段使っているよく聞いていて、それを組み合わせて見事に対応したのだった。私は彼に、日本語にも韓国語と同じように敬語があるから、敬語で対応した方がいいよ、と言い、よく電話に出てくれる他の韓国人たちにも正しい電話の対応を教えた。
そして、それなら私たちも電話の会話くらいは韓国語も覚えた方がいいのでは、ということになり、「ヨボセヨ(もしもし)」「ヌグチャジュセヨ(どなたをお探しですか)」「チャンカンマンキダリセヨ(少々お待ちください)」「チグム オプソヨ(今いません)」の四つを覚えた。(ここで、「あとでかけます」とか「何時に戻りますか」などと言われたら対応できないのではあるが。)そして、覚えたら、みな自分の韓国語が通じるか試したくなり、電話が鳴ると部屋を飛びだし、電話まで競争するということが度々あった。通じたら、自分の中国語が初めて現地の中国人に通じたときと同じく、興奮した。今はどこの国にも携帯電話という便利なものがあり、留学生もその恩恵にあずかっているわけで、こんな面倒な電話の「繋ぎ」もないのだけど、こうやって交流しながら、一つ一つ言葉を覚えていくのはとても楽しいことだった。
私たちはハルビンにいる間、韓国人と同じ所に住み、同じ授業に出て、一緒に食事し、一緒に出かけ、一緒に飲んだ。私が見た韓国人は、熱くて、親切で、正直な人たちだった。国と国との間にはいろんな問題があって、言葉や習慣は違うけど、国籍が違っても、一人一人は仲のよい友達になれるのだということを私たちは知ったのだった。
日本人留学生は短期滞在者が多くて、長くても1年から2年、本科を修了するまでいる韓国人よりは先に帰国するのだが、日本人が課程を終えて帰国するときは、韓国人たちが車が見えなくなるまで見送ってくれた。帰国してしまえば、ここでできた友人になかなか会うことはできなくなってしまう。仲のよい子が帰国するときは、空港まで来てくれ、涙を流す人もいた。
私はその3年後、留学のため韓国ソウルへ渡るのだが、ハルビンで一緒に生活した韓国人留学生たちに再会することもでき、感激もひとしおだった。韓国語ができるようになり、習慣や文化を理解してからは、もっと深く彼らを知ることができた。あるとき、同窓生の飲み会で、一時同じクラスだったTと会うことができた。Tは仲の良かったSと一緒に、北京の大学に転校していったが、その後は連絡を取っていなかった。Tに会うのは実に4年ぶりで、再会はとても嬉しく、懐かしかった。4年前と全く変わらない様子で現れた彼は、驚いたことに「こんにちは、カコ。久しぶりだね」と、流ちょうな日本語で言った。彼は、Sと一緒に北京の大学の日本語学科に在籍していたのだ。
「どうして僕たちが、中国にいながらわざわざ日本語学科に入ったか分かる?それは、あなたたちと一緒に過ごしたあの留学生活が、とても楽しかったから。日本人を好きになったからだよ。」と言った。私は涙が出るほど嬉しかった。あのとき一緒に留学生活を送った日本人全員に伝えたいと思った。
そして私も、同じ理由でここにいるのだと言うと、言わなくてもわかっているよ、と彼は笑った。

ある日の午後、寮の下の階がなにやら騒がしい。降りて行ってみると、韓国人留学生が十数人集まっていた。見たことのない人もいる。他の大学の留学生たちだった。何が始まるのか隣の部屋のWに訪ねると、
「韓国人留学生の代表を決める選挙があるんだよ。」
と、教えてくれた。日本人は人数も少なかったし、留学生会というような組織はなかったのだけど、ハルビンには駐在している韓国人や留学生が多く、韓国人会や韓国人留学生会というものが存在していて、短期留学以外の韓国人留学生は必ずそれに入らなければならなかった。留学生のための運動会などの行事も韓国人会主催で行われていて、留学生会の会長はそういったときに代表で挨拶をしたり、留学生をとりまとめる重要なポストで、毎回選挙で選んでいるという話だった。
よく見ると、そこに集まっているのは男性ばかり。女の子は?と聞いてみると、
「投票権は基本的に男にしかないよ。女の子は役員になっている人のみが投票権できるんだよ」
という。何とも韓国らしいな、と思ってしまった。
各大学の留学生代表の中から会長を選ぶのだが、その年はうちの大学の留学生が会長に選ばれた。中国武術を選考していて、留学生の中でも年長者の彼は、がっちりした体格で目つきが鋭く、存在感があり、まさにボスという感じ。私たち日本人は、勝手に「ハルビンボス」とあだ名をつけて呼んでいた。
その数日後、寮の廊下でハルビンボスに話しかけられた。
「日本人留学生の代表は君だろう?一番長くいるのは君だと聞いたんだが」
は?代表?十数人しかいない日本人の間では、代表とかって特にないんですけど・・・と、言おうとしたが、考えてみたらその前の学期までは、三年くらい滞在している中国語の堪能な日本人の大先輩がいて、彼女が主に中国に不慣れな新入りの世話をしてくれて、なんとなく私たちの中では頼りになるボスのような存在だったのたが、その学期が始まる前に彼女は上級クラスを終えて帰国してしまい、私が一番の古株になっていたのだった。しかし、古株とは言っても、うちの大学は交換留学で来ている1年滞在のひとばかりで、私も1年ちょっとたっただけで、新しく来たひとたちと大して変わらないんですが・・・ともぞもぞ言っていたら、彼は
「代表同士、今後ともよろしくね!」
と、私の肩を叩いて去っていった。
当時、韓国人同士で何か問題が生じたら、会長が出てきて問題解決にあたるということが度々あった。例えば、韓国人留学生同士が集団で、お酒の席で喧嘩になったりすることが何度かあり、そういうときは、翌日ボスから全員が呼び出されてお説教&お仕置きを頂く、ということもしばしばだった。お仕置きはかなり厳しかった模様で、泣き出す弟分もいたそうだ。話を聞いてそこまでボスに権限があることに驚いたが、韓国人は日本人と違い、何でも集団で行動することが多く、
※第9回どうして一人なの?参照
組織や集団に属することはごく自然なことのようで、また、韓国は儒教文化の影響があり、年下がミスをしたら年上が諭すというのはよくあることで、集団の中でも上の立場の者が下の者を管理・指導することは当然のように行われているのだった。
しばらくしてから、夜、私の部屋に韓国人の女の子がやってきて、
「日本人のことで相談がある。」
と言った。彼女はある日本人の女の子が、韓国人の彼氏の部屋に住み着いてしまって、彼氏のルームメイトがとても困っているがなんとかならないか、と言った。
「韓国人なら、お兄さんたちからお説教があるのだけど、彼女が日本人だから私たちも慎重なの。」
寮の部屋は、料金を倍払って一人部屋にしない限りは、基本的には二人部屋なので、異性は泊めないのがルームメイトへのマナーである。彼氏のほうには、お兄さんたちが言ったらしいのだが、あまり改善されていないので、彼女のほうにもなんとか言ってほしいとのことだった。
「それは困ったねぇ。で、何で私に話したの?」
と聞くと、
「カコは代表だから!」
と言った。
日本人にはそういう上下関係はないし、他人のことにそこまで干渉する習慣もないし、私はその子とそこまで親しくはないし・・・。うーん、どうしよう、と私はしばらく頭を抱えるのであった。私たちにもボスがいて、この国際的で、ある意味閉鎖的な環境でこそ起こる問題をすべて解決してくれたらどんなに楽だろう。でも、韓国人に比べて日本人は個人主義だし、日本人の代表というものがいたとしても、特に上下関係はなく、プライベートなことにそこまで干渉することはないだろう。結局私たちは、個人の問題は個人で解決するしかないのだった・・・。

留学先のハルビンの大学では、学期ごとに中間テストと期末テスト、二回の試験があった。私のクラスには韓国人と日本人が多く、どうしてもその二つの国の留学生が比べられてしまうのだが、初級・中級くらいまでは、成績はいつも決まって日本人がダントツに良かった。一年に二回の検定試験でも一緒に勉強し始めた韓国人と比べると、日本人のほうが平均点はかなりいいのだった。理由は、日本にも中国と同じように漢字があるからだ。
日本では、はるか昔に中国から「輸入」した漢字を日常的に使っている。現代の中国で使われている漢字とは意味が異なるものも多少はあるが、教科書に出てくる7~8割は日本語と同じ意味なので、一字一字の読み方が分からなくても、全体の文を見ればだいたいの意味が分かることが多い。韓国では70年代まではハングルと漢字を併用していたが、今はほとんど漢字を使わずハングルのみで文章を表記していて、若い世代は自分の名前や簡単な漢字しか読み書きできない人がほとんどなので、ハングルには漢字を元にした単語がたくさんあるとはいっても、「外国語」として漢字を学ばなければならない。中国人の先生は、韓国人の書く漢字は、日本人に比べて書き慣れていないように見えるといい、よく赤ペンで書き方を直していた。
日本人留学生は、長文を読んで問題に答える「精読」「閲読」が特に得意で、たまに簡体字を繁体字で書いてしまったり、日本語と中国語で微妙に書き方が違う漢字を間違えたりはしたが(日本語「骨」中国語「骨」、日本語「収」中国語「收」等)、書き取りをやらせても他の国の留学生より悪くなかった。漢字を使わない国の留学生が、例えば「拝」の「つくり」の横線が三本なのか四本なのかを数えながら覚えているのに対し、日本人は漢字に慣れていて、新しく習った漢字でも部首で意味を把握し、すぐに覚えることができる。
ところが漢字慣れしている日本人は、リスニングが苦手であった。リスニングの試験では、韓国人が上、ということがしばしばあった。日本人留学生は中国人と会話していて、聞き取れなければすぐに「書いて下さい」と、漢字を見て理解しようとする。見た方が早いので、習慣的に視覚に頼ってしまうのだ。これでは、リスニング力は伸びない。リスニングを鍛えるためにTVを見たりもするのだけど、中国のTV番組は標準語(北京語)の字幕が下に表示されることが多いので、ぼんやり見ていると、いつのまにか全然耳で聞かずに目で字幕を追っていることに気づく。仕方ないので、字幕部分に紙を貼ったり、目をつぶって聞いてみたり。苦手なものは工夫と努力がないと伸びないのだ。リスニングが苦手ということは、会話も得意ではないということ。会話能力も韓国人のほうが上だったかもしれない。
得手不得手があり、中国語学習に四苦八苦している留学生たちだったが、韓国人としょっちゅう一緒にいるうちに、学校で学んでいる中国語より韓国語のほうが覚えやすいことに気づいてしまった。日本語と韓国語は文法が同じで、発音も似ているものが多いのだ。韓国人たちも同じように、ちょっと教えただけで日本語をすぐに自分のものにする。挨拶や簡単な単語をいくつか習得したら、みな次には普通には使えないような罵り言葉や、下ネタ言葉、異性をくどく時の言葉などを覚えたがるのはなぜなのだろう。
ある朝学校に遅刻しそうになって、走っていたら上級クラスの韓国人Wが、うしろから何か怒鳴っているのが聞こえた。発音は悪いけどなにやら日本語のようで・・・。
「オハヨーゴジャイマス。オレニホレルナヨ」
分かった瞬間吹き出した。日本人の誰かが彼に教えたのだろう。
「ノ、パボアニャ?!(馬っ鹿じゃない?!)」
すかさず教えてもらった韓国語で叫ぶ。
教室に向かう道中で、彼は
「オレノアイハ・・・ウミヨリフカイ」
「オサケハ、イケルクチデスカ」
などと嬉しそうに繰り返していた。教科書はないけど、お互いの言葉を教え合うのは本当に楽しかった。こういう言葉は、どうして教科書の単語より覚えやすいのだろう。
私も彼らのおかげでたくさんの言葉を覚えることができた。だけど数年後、韓国に行ってから知ることになる。教えてもらった言葉は本当に・・・、本当に日常生活では使えない言葉ばかりだったのだ・・・。
※今回で週刊コラナビ北海道は100回を迎えます。いつもご愛読頂いている皆様、本当にありがとうございます。今後とも週刊コラナビ北海道をよろしくお願いいたします。

当時、私たち日本人留学生があまり韓国のことを知らないのに、韓国人留学生はとてもよく日本のことを知っていた。特にアニメ、ドラマ、歌謡曲、ゲームについて。韓国では日本の植民地支配終了後、国民的感情から、長く日本の大衆文化は解放されていなかったが、若い世代は海賊版CDやVCD(ビデオCD)などで、リアルタイムで日本のポップスやアニメなどに精通していた。(日本文化は禁止のはずだが、なぜか韓国語に吹き替えられたいくつかの日本アニメの放映はあったという。しかし、それが日本のものだとは私たちと話すまで知らなかったそうだ。)
韓国人留学生のHは、日本のXJAPANが大好きで、日本語の意味もわからないままよくその歌を口ずさんでいた。ある日本人学生が帰国したときに、最新のXJAPANのCDを買ってきてプレゼントすると、涙を流して喜んだ。当時韓国では手に入れることができなかったからだ。その日から毎日のように、Hの部屋の階では大音量でそのCDが流されることになった。
当時、韓国人留学生の間ではPlayStationが流行っていて、授業にも出ずに朝から晩までゲームという留学生も何人かいた。このゲームソフトはほとんどが海賊版。当時ハルビンでは取り締まりも今ほど厳しくなかったので、街に出れば商店や地下街などで堂々と売られていた。海賊版は、プラスチックケースに入っていなかったり、中の紙がカラーコピーで印刷が微妙にずれていたりするので、パッケージを見ればすぐに分かる。一枚10元(160円)くらいからなので、正規版よりはるかに安い。(残念ながら、ハルビンにいる間には正規版にお目にかかったことがない。)
他の日本人留学生の話によると、海賊版のソフトを日本に持ち帰り、日本のPlayStationでプレイしようとしても起動しないそうなのだが、中国で売られているPlayStationは、海賊版を認識するように改造されているので、正規版と変わらず何の問題もなく遊べるのだ。いや、問題はといえば、こんな状態だから正規版が流通することがないことが問題だといえるが・・・。
PlayStationを改造しなければいいのにと考えてみたけど、高い正規のソフトは当時の中国では売れなかっただろう。結局安い海賊版がなければ、ここまでこのゲーム機が普及することもなかったのだ。これは、日本のアニメや漫画の本にも同じことが言えて、海賊版があるから、中国であそこまで日本の大衆文化が広まったのだともいえる。
そういうわけで、韓国の留学生の部屋にもたくさんの海賊版ソフトがあり、そのほとんどが日本語版だった。韓国人留学生の部屋の前を通り過ぎると、何やら可愛い声で日本語が聞こえてくる。部屋の住人に手招きされて中に入ると、彼は恋愛シミュレーションゲームをやっていた。アクションゲームなどとは違い、このゲームは会話や画面に表示される日本語が多い。画面の中の目の大きな女の子は高い声で、
「ねぇ、手を繋ごうよ」
などと言っている。彼に頼まれて内容を通訳することに。私もこの種類のゲームを初めて見るので面白かったが、恥ずかしくなるような台詞が多かったのを覚えている。それにしても全然日本語が分からないのに、よくこんなゲームをやる気になるなと感心した。数日後、彼はそのゲームの影響で奇妙な日本語ばかりを覚えて私たちに話しかけるのであった・・・。
韓国では日本文化は禁止されていたが、異国にいる若い世代には確実に日本の大衆文化は浸透しているようだった。そして、私たち日本人留学生は、数年後には日本にそれよりもっと大きな韓流の波が来ることをその時誰も予測してはいなかった。時代の流れというのは本当に分からないものだ。

ある日の午後、同じ階の韓国人の部屋が何やら騒がしい。時折怒鳴り声も聞こえてくる。おそるおそる覗いてみると、部屋の真ん中にはそこの住人Jが、そのぐるりと周りを囲むようにオパ(お兄さん)たちが座っていた。Jは泣いた後のような顔をしていて、オパたちは皆たばこをふかしながら、怖い顔でJをにらんでいる。そこにいた同じクラスのSが覗いている私に気づいて出てきて、ちょっと気まずそうに言う。
「今この部屋には入れないよ。取り込み中でさ・・・」
「どうしたの、また事件?」
「うん・・・、まぁね。Jが年齢詐称で。」
「年齢詐称!?実際より若く言ってたとか?」
「いや、その逆。Jは20歳だって聞いているでしょ。実は17歳だったんだ。」
Sから聞いた話はこうだ。Jはハルビンに来たときからずっと、Sと同じ20歳だと言っていたので、周りはみなJがその年だと思っていたが、この日たまたまJがなかなか見せようとしないパスポートを、彼が不在のときに同室のオパが見てしまったことで、実際の年齢が発覚した。オパたちは「騙された!」と怒り口々にJを非難。ボス格のオパは、
「お前を同い年の『友達』だと信じていたSやTの気持ちを考えたことがあるのか?彼らがどれだけショックを受けたかよく考えて反省しろ」
と叱ったという。話を聞いていても、Sの怒りは大きく、Jに裏切られたという悔しさと悲しさで一杯のようだった。
年を三歳ごまかしていたことで、ここまで大事になるなんて日本人にはちょっと理解できないかもしれないが、この事件には韓国特有の文化が関係していた。
「第6回 血のつながらないお兄さん、お姉さん」にも書いたが、
韓国は儒教社会で、年上は敬わなければならず、相手が一歳でも自分より年が上なら「お兄さん」「お姉さん」などと呼び、敬語を使わなければならない。(親しくなると、敬語を外す場合もある。)韓国人が知り合ってすぐに年齢を尋ねることがあるのは、この上下関係を決定づけるためだ。同じ年の生まれの時のみ、対等な関係の「友達」になれる。この上下関係のない同い年というのが、韓国人にとっては遠慮なく付き合える特別な関係のようで、よく「僕たち80年生まれ!」などといって、JがSたちとつるんでいるのを見た。そういうわけで、SやTの怒りは特に大きかったのだ。
Jは韓国人留学生の中では一番年下だった。一番下っ端の「弟」になれば、「お兄さん」たちの言うことを聞かなければならない。使い走りにもされるし、いじめられるかもしれない。それが怖くてついてしまった嘘だったのだが・・・、みんなを騙したことになる彼にはきつ~いお仕置きが待っていたのだった。
数日後、早速ビールを買いに行かされている彼を見かけた。目が合うと彼は苦笑い。私はこの事件を通して、日本にはない韓国社会の厳しさを知ったのだった。

ある日中国語初級クラスの授業で、事件がおきた。ある韓国人の女の子が担任の先生に、
「授業がつまらないし、あまり私のためになっていない。私はあまり授業にも来ていないので授業料を返してもらえないか」
と言ったのだ。先生は厳しい口調で、それはできない、あなたはもっと授業に出て真面目に勉強しなさいと諭した。彼女は腹を立てたようで、先生が教室を出て行く背中に向けて、吐き捨てるように韓国語で何か言った。
すると、クラスで一番年上の韓国人のTオッパ(お兄さん)が、すぐに彼女の机の前にやって来て、大きな声で彼女に何か言っていたが、そのうちそれが罵りに変わった。(当時、罵り言葉だけは聞き取ることができた。)彼女も負けてはいない。机を叩きながら何か言い返している。二人のあまりの剣幕に、日本人留学生や他の韓国人は、固唾を呑んで見守っていた。
Tオッパが彼女から離れたので、事が収拾したのかとほっとした直後、ひらりとオッパが宙を舞い、彼女が机ごと後方へ飛んでいった。Tオッパが彼女に跳び蹴りをしたのだと気づくのに数秒かかった。彼女は気丈にも、ひっくり返りながらもなお、Tオッパに文句を言い続け、日本人の男の子や他の韓国人が間に入ってやっとその場は収まった。
その授業の帰り、韓国人の男の子Sが話しかけてきた。
「びっくりしたでしょ~。でもあれはあの子(女の子)が悪いよね。お兄さんは一生懸命教えている先生に対してなんてことを言うんだって注意したんだよ。だけど、相手が自分の非を認めないからあんなことになって」
私たちももちろん彼女が悪いとは思うのだけど、「あの子態度悪いな~」くらいで、跳び蹴りするほどの怒りまでは感じていなくて、どちらかというと、Tオッパが女の子に跳び蹴りしたことに対して、ちょっとどうなんだろう・・・と思っていたのだった(そのオッパは日常的にも短気なほうだったのだけど)。
そのしばらく後に、国費短期留学の韓国人留学生の女の子が私のクラスに入ってきた。彼女はとても熱心に勉強していて、授業でもよく質問していた。あるとき、寮でおしゃべりしているときに彼女が、
「私S先生嫌いなの。話がつまんないし、説明も詳しくないから、授業がわかりにくいのよね・・・。先生を換えてくれたらいいのに。」
と言ったら、
その先生に習っている同じ国費留学生のYオッパに聞こえてしまって、
「こらっ!何を生意気なことを言ってるんだ。先生に対してそんなことを言うんじゃない。」
と叱り飛ばされ、その場の雰囲気は一変。彼女はしくしく泣き出してしまった。
数年後、韓国に住んでから知ったのだが、儒教思想の浸透している韓国では、先生の地位は高く、目上の人である先生は敬うべき存在だという意識が強いのだった。今月5月には「先生の日」まであって、いつもお世話になっている先生に贈り物をする習慣がある。(近年、高額な贈り物をする保護者が増えてきて、社会問題になっているので、先生の日を休校にする学校も増えている。)
それでもやっぱり、跳び蹴りまでするというのは行き過ぎだと思うのだけど、Tオッパは、熱心な例の先生をとても尊敬していて、その先生の授業は特に真面目に受けていたし、授業が終わってからも一緒に食事に行ったり、放課後に勉強を教えてもらったりしていたので、自分より年下のたいして授業にも出てこない学生が、先生を批判するということが、どうしても許せなかったのだろう。
日本では昨今の報道を見ていると「先生を尊敬する」という考えは、一昔前のもののような気さえする。韓国でも先生は敬うものという考えがあるとはいっても、実際学校には日本と同じように様々な問題があり、やはり苦労が絶えないようである。先生という職業は、どこの国でも大変な仕事なのだ。

学校でも寮でも常に韓国人留学生と一緒の生活の中で、いくつかのロマンスも生まれた。たいていのカップルは、男の子が韓国人で女の子が日本人。私の印象では、どうも韓国の男性は(中国人もだけど)日本の女性が好きなようだ。これに関しては、第31回「日本の女の子ってさ・・・」にも書いたのだけど、今は昔とはだいぶ違うとはいっても、やっぱり外国人にはヤマトナデシコのイメージが根強く残っているようで、日本の女の子は優しくて従順だと思っている人が多い。確かに、男性と対等に堂々とものを言う男女平等を掲げる中国の女性や、思ったことを正直に主張する韓国の女性よりは、婉曲的にものを言い、習慣的に細かい気配りができて、男性の世話をよくしてくれる日本の女の子は優しく家庭的だと、外国の男性の目には映るかもしれない。(だけど、思っていることをはっきり口に出すか出さないかだけで、女の子は結局どこの国でも同じだと思う・・・。)
実際、中国や韓国で日本人女性はモテる。留学中、日本人留学生の女の子はそれぞれ、現地の中国人や韓国人留学生に追いかけられることが度々あった。花束や贈り物を持って寮の前で待ちぶせ、跪いて求婚されたり、毎日のように手紙が届けられたり、寮の電話が目当ての女の子出るまで鳴りっぱなしのこともあった。
「あたし、こんなにモテたの生まれて初めて」
と、苦笑いしながら隣室の日本人が言っていたのを思い出す。「『日本の女』って一種のブランドだよね」と表現した子もいる。その表現が適切かどうかは分からないけど、「日本人の女の子」ということが分かると、相手の男性の態度が変わることがよくあった。だけど、それはそれで寂しいことだと思う。相手は「私」を見てくれているのではなく、「日本人の私」に興味があるのだ。最近も日本に駐在している台湾人や韓国人が、「お嫁さんを探しに日本に来ました」とか「結婚するなら日本人女性」と言っているのを聞いて、留学中あった数々の出来事を思い出した。
男性が日本人で、女性が韓国人というカップルは私の周りには一組もいなかったのだけれど、韓国人女子留学生に日本人男子留学生の印象を聞いてみると、
「優しいんだけどね・・・、なんか細かくて、女性的なのよね。男らしさに欠けるっていうか・・・」
という答えが。韓国の男性は、儒教思想の男性優位の社会の中で育っていることや軍隊に行っていることも関係あるのかもしれないけど、肉体的にも精神的にもたくましさを感じさせるし、良くいえばリードしてくれて、(それがワンマンに映ることもある)、恋愛中は非常によく女の子に尽くしてくれ(結婚後はかなりの亭主関白になる)、細かいことにこだわらないタイプの人が多い。だから、韓国の女の子には日本人の男性は気配りができるけどそれが細かく思えたり、相手の意見を聞いてから物事を決めたりするのが、リードしてもらえないから物足りなく思ったりするのかもしれなかった。日本人の女の子が、韓国人の男の子と付き合うのも、韓国人男性のこういうところに新鮮さと魅力を感じているからだと思う。
韓国人と日本人がカップルとしてまとまりやすいのは、外見も習慣も似ていて、すんなりと恋愛モードに入っていけるからだと思ったりもする。韓国や日本で出会うのではなく、中国やアメリカ、スペインなど第三国で出会って恋愛関係になる韓国人と日本人のカップルは意外に多い。後に韓国に留学したときに、同じ韓国語学校に通っていた日本人で、第三国で韓国人の彼氏に出会い、韓国にやってきたという子がかなりいて驚いた。当時は、韓流ブームの前だった。みな、TVではなく彼氏を通して韓国を知って興味を持ち、韓国にやってきたのだった。
韓国で中国留学時代の韓国人クラスメイトと、再会を祝ってお酒を酌み交わしているときに男の子たちが、
「やっぱり彼女は日本人がいいよ~」
と言ったので、
「実際は、日本人の女の子にもいろいろいるのよ!あなたたちが思っているような都合のいいタイプばっかりじゃないよ。」
と言っておいた。
恋愛も立派な国際交流の一つだ。語学の勉強にもなる。是非大いに恋愛して、理想ばっかり追い求めるんじゃなく、相手の習慣や文化、考え方を深く知ってほしいと思う。

留学生寮の部屋は、留学生を管理する「外事処」に申し出でて「包房(バオファン/一人部屋)」にしない限り基本的には二人部屋で、日本人留学生は、韓国人と同部屋の場合も多かった。韓国人は主に本科卒業までの5~6年いる長期滞在の学生ばかりだったので、家具や電化製品も多く、すっかり一人部屋のようになっているところに入れてもらうことになる。部屋にはオーディオやビデオデッキ、ゲーム機やストーブなどがずらりと揃えられていた。(韓国人留学生が、一斉に電化製品をフルに使うと毎回その階のブレーカーが落ちるので本当に困った。)
暮らし初めて最初にびっくりするのは、こちらのものを自分のもののように勝手に使うことだ。はさみやドライヤーなどは断りなしに使い、服なども着て行ってしまうことがある。使用後、ちゃんと戻してくれることは少ない。買ってきた果物も全部食べられてしまったり。
これは「第45回 オマエのものはオレのもの!?」でも述べたことだが、親しい人のものは自分のもののように気兼ねなく使うという習慣だからなのだった。
韓国人のルームメイトが食べ物を買ってきたときは、絶対に一人では食べない。必ず相手にも勧める。勧められたら、遠慮する必要はない。日本人は、買ってきたものを相手に声を掛けずに一人で食べていたりするのだけど、韓国人はそれを見て「この人は、なんてけちなんだろう」と思うのだそうだ。日本人同士なら、たとえ「食べる?」と勧められても、「これはこの人の買ってきたものだから」と、一つ二つもらって後は手をつけないだろうが、韓国人は遠慮しないでがつがつ食べるので日本人は「ずうずうしいな」と思うかもしれない。私たちは、最初にこのような壁にぶつかってお互いに習慣の違いを知るのだった。
部屋で共同で使うもの、トイレットペーパや石鹸等を買ってきて割り勘にしようと韓国人に言ったら、断られた人もいる。「今回はあなたが買ってきたけど、次回は私がかってくればいいんじゃない?」と言われたそうだ。韓国には(中国にも)割り勘の習慣がないのだ。一緒に食事をした場合も、誰か一人が払う。払ってもらったら、次回ごちそうする。そういう持ち回り制になっているのだ。10円単位まで(細かいときは1円単位まで)きちんと割ろうとする日本人を「めんどくさいな~細かすぎるわ。」という目で見る。これも私たちには衝撃だった。
よく日本人が困っていたことは、ルームメイトの友達が部屋に来て、夜遅くまで(夜中になることも)いることだった。テスト前でも、相手が眠そうでも、具合が悪そうでも、あまり気にする様子がない。「迷惑そうにしても気づいてくれないんだけど、どうすればいい?」私の中国滞在が二年目に入ったときに、新しく来た日本人留学生に相談されたこともある。「そういうときは、『今日は眠いから』とか『風邪引いているから』言って、帰ってほしいということをしっかりアピールしないとだめだわ」と、アドバイスした。
「眠いなら眠い、疲れているなら疲れていると言えばいいのに。韓国人同士なら、そういわれることは全然嫌じゃないよ。友達なのに何を遠慮しているの」これが韓国人の意見だからだ。はっきり言われなくても、空気を読む、相手の態度から気持ちを読み取るというのは、日本でしか通用しない「美学」なのだと私たち日本人留学生は初めて知るのだった。
韓国は儒教文化なので、ルームメイトが自分より年上だったら何となく気を遣わないといけない雰囲気だった。こちらが年下なので、何かあったとき面倒は見てくれるのだけど。相手が自分より年下のときは、「お姉さん」「お兄さん」などと呼んでくれて、気を遣ってくれる。だけど、食事の支払いはこちら。韓国では食事したときは年上が支払うのだ。中国にいるのだから、そこまで韓国人に気を遣うこともないと、私たちも思うこともあった。だけど、ここでは圧倒的に多いのは韓国人留学生。外の世界と隔離された寮の中は完全に韓国化していて、自然に韓国文化が生活の中に入ってきたのだった。

宴会では、日本人がいてもいなくても、会話はほぼ韓国語になる。日本人なら自分たちの宴会に韓国人が来たら、気を遣って共通語の中国語を使おうとするだろうが、彼らはあまり気にしていないようだった。最初は困ったけど、その代わり、私たちはお酒に関する韓国語を自然に覚えることができた。彼らは、お酒を飲みながら語るというまったりした飲み方ではなく、毎回早速ゲームを始めるのだった。
「タイタニック」と言う名前のゲームは、ビールがなみなみ入ったジョッキの中に、焼酎のお猪口を浮かべて、その場にいる人が順番にその中に焼酎を入れていき、お猪口を沈めた人がそれを「ワンショッOne Shot」(一気)飲みする。つまり「爆弾酒」を飲まされるのだが、お酒は混ぜると回るのが早い。お酒が弱い私は、一杯でダウン。もう飲めないのでやめるといったら、みな本気で怒り出す。誰かに代わりに飲んで貰ってもいいよ、と言ってくれるのだが、飲んでもらったらその人の要求を聞かないといけないというとんでもないルールだったので頑張るしかなかった。ほかにもいろいろなゲームがあり、円になって座り親を決めて、みんなで一斉に0,1,2のどれかを指で出し、親から時計回りに数えてその合計した数の人が一気飲みするとか。どのゲームも早く酔っぱらいたいだけなんじゃないの・・・と思うものばかり。
女性も男性も私の周りの韓国人は、みんなお酒が強かった。毎回とんでもない数の瓶が空になって転がっていた。オッパたちがよく、「軍隊ではこんな量じゃないぞ、もっともっと大量に飲んでいた」と、誇らしげに言っていたのを思い出す。お酒が元で、韓国人留学生同士がけんかになることもたびたびあった。日本人が同席しているときにはほとんどなかったけど、叫ぶようなののしり声と、物がたたきつけられるような音がするときは、私たちは部屋に鍵をかけて外にはでなかった。朝、学校に行こうとしたら、消化器がへしゃげて階段の下に落ちていたり、三つ隣の部屋のドアにヒビが入っていたりした。外で飲んでいて大げんかになり、救急車で運ばれたオッパがいたことも忘れられない。
後に韓国に渡ってから知ったのだが、韓国では日本とは違う独特の酒文化があり、お酒は仕事やプライベートで、人間関係を構築するのに重要なツールだという考えが日本より強く、特に男性はお酒が飲めないというのはデメリットだとらえられている。酔っぱらってぐでんぐでんになることが恥ずかしいことだとは考えていないようで、ヨッパライの世話をさせられる側も、それを迷惑だとはあまり思っておらず、あまり怒ったりはしない。「仲がよければ、酔っぱらって多少乱れても大丈夫、それが心を許しているということ」という考えなのだそうで。どこまでが多少、なのかはちょっと考えてしまうけど・・・。
ついていけないと思ったこともあったが、もちろん楽しく飲めた宴会も何度もあったし、やっぱり彼らとお酒で仲良くなったということは否定できない。だけど、今日は飲めない・・・と思うときは、オパたちが飲み会に誘いに来ても、私は居留守を使うようになった。いるとわかると断っても連れて行かれるので・・・。
彼らはやって来ると、トントンとノックして日本語で「カコ、アリマスカ?」と尋ねる。
勿論、「カコ、イマスカ?」が正しい。日本語は、人のときは「いる」物のときは「ある」。韓国語では人も物も区別無く「イッソ」というので、間違って覚えているのだろう。それが聞こえると、私は電気を消して布団をかぶり、心の中で「アリマセンよ」と言うのだった。
※目上の人と飲むときは、韓国もマナーがいろいろとあり、こんな飲み方ではないのですが。宴会や食事のマナーについてはこの回に書いています。

同じ大学の韓国人留学生達は、非常にお酒を飲むのが好きだった。特に男性はそう。毎日というのは言い過ぎだけど、二~三日に一回くらいは、大なり小なり誰かの部屋で宴会が行われていたんじゃないだろうか。夜になると、怒鳴っているのか笑っているのか、大きな声がよく聞こえていた。日本人の留学生もたまにそれに混ぜて貰ったりしたが、そのテンションの高さとお酒の量にはただただ驚くばかり。
ビールはケースで買ってくる。ぬるいハルビンビールのときもあったけど、韓国料理店で売っている韓国ビールのときもあった。韓国焼酎も必ずある。だいたい宴会が始まる時間は遅いので、ビールを買いに行こうとしても、門は閉まっている。寮の門限は夜10時なのだ。
当時、ハルビンの大学では外国人は隔離されていて、勝手に大学の外に住むことはできなかった。治安がよくなかったので、外国人の安全を守らなければいけなかったからだ。中国人は受付で身分証を提示しなければ、外国人寮の中に入ることはできなかった。ハルビンの公安もときどき様子を見に来ていた。寮にいては、夜、自由に出かけられないので、長くいる韓国人やロシア人の中の何人かは、こっそり知り合いの中国人に助けて貰って外にアパートを借りて住んでいたけど、留学生を管理する「外事処」の人たちにばれてしまい、(外事処は留学生寮の一階にあったので、いないとすぐわかる)連れ戻される人もいた。
そういうわけで、私たち外国人を守るため?に、寮の周りには高い壁と柵があって、入口には大きな鉄の門があった。この門が10時には閉まってしまうのだ。夜は「大爷(ダーイエ/おじいさん)」がこの門を管理していた。韓国人たちはこのダーイエにお金を渡して、門を開けて貰う。彼らがナイトクラブなどに行くときも、ダーイエにお金やお酒などを渡しておくと、明け方戻ってきても待っていてくれるのだ。お金を渡すのを忘れると大変なことになる。携帯電話もない時代だったので、二階の誰かの部屋に石を投げて起こし、シーツをつたって壁を登り、窓から入らないといけない。もちろんこんなことが「外事処」にばれたら大変なことになるのだが、私がいるときは一度もばれることはなかった。
話を元に戻すが、ダーイエにその大きな門を開けて貰って宴会のためのお酒を買いに行ったら、近所のお店は閉まっていることが多かった。当時コンビニなどあるわけもなく、大学付近の店は夜7時には終わってしまう。中国の店は、強盗防止のために窓に鉄格子がつけられていたり、店のドアは頑丈な分厚い鉄でできていたりする。そのドアをガンガンとたたいて、もう閉店しているお店を開けて貰う。一度などは時間が遅すぎて、お店の人が棒を持って出てきたことがあったそうだ。強盗だと思ったらしい(笑)
今思い出すと笑ってしまうのだけど、当時、ハルビンビールのラベルには500ml±(プラスマイナス)と書いてあって、並べると一本一本微妙に量が違った。つまり、約500ml入ってますということなんだけど、なんともアバウトである・・・。瓶詰めは手作業なのか?!と考えたりした。細かい人は、量を比べて多い方を買っていく。韓国人はケースで買ってくるので、あまり関係なかったけれど。
続く・・・

私が韓国人と初めて接触したのは今から約10年前。留学先の中国で。
今でこそ韓流ブームで、毎日のようにTVには韓国ドラマが流れ、韓国語が聞こえてくるが、当時は韓国の「か」の字も日常生活で耳にすることは無く、それまで、韓国について「隣にある国」という認識しかなく、どんな国なのか、その国の人たちはどんな言葉をしゃべるのか考えたことも興味を持つこともなかった。
ハルビンの大学の寮に着いたら、前髪の長い男の子たちが(当時韓国ではアイドルグループの影響で、前髪を目の下くらいまで長く伸ばすのが流行っていた)何も言わなくても私たちの幾つもある重いスーツケースを私たちの部屋まで運んでくれた。日本人留学生の先輩が「彼らは韓国人よ」と言った。そのとき、私には彼らのしゃべっている言葉が中国語なのか韓国語なのかもわからなかったが、彼らがとても親切だというのは感じた。
私たちは、すぐに簡単な英語とカタコトの中国語で交流した。驚いたことに、彼らの中には平仮名が読め、日本語の簡単な単語は理解できる人が何人もいた。韓国では高校から第二外国語があって、当時日本語の人気は高く、彼らも高校時代日本語を選択していたのだった。韓国人は、挨拶するときにお辞儀したり、目上の人に敬語を使ったりするので、日本の文化と大変似ていることに気がつく。そのうち、中国語を使って韓国語を習うようになり、「マシッソヨ」「アニエヨ」など語尾に「ヨ」がつけば、敬語だと教えてもらったり、(後に韓国語を学んで、そんな単純なものではないと分かるのだが)、韓国語は文法が日本語と同じで、発音もしやすいことを知る。
ハルビンの大学は、日本人はたったの10人。韓国人は私たちの5倍以上在籍しており、寮や中国語クラスの中は完全に韓国化していた。韓国人留学生は数も多いのだが、日本人は1ヶ月~2年の短期留学者が、韓国人は本科までを終了する目的の4~6年の留学生が多かったので、必然的に寮も学校も長く滞在している韓国人のカラーになってしまう。一体自分はどこに留学しているのだろう?と思うこともあった。
隣の部屋からは韓国の音楽が大音量で聞こえてきて、食事の時間にはキムチのにおいがする。韓国人留学生は「スープとキムチがないとダメ」といって、学生食堂で食べることはせず、自炊か韓国料理専門店で食事していた。韓国人のお姉さんたちは、よくキムチをつけていたので、そのときは作り方を教えてもらったりした。留学生の中で年が上の人たちは、自分たちを「オッパ(お兄さん)」「オンニ(お姉さん)」と呼ばせた。「韓国にいるわけじゃないのに、なんでそう呼ばないといけないの?」と抵抗していた日本人留学生もいたが、結局最後には「○○オッパ」と呼んでいた。
オッパやオンニたちは、年下の私たちの面倒を良く見てくれた。ご馳走してくれたり、病気になったら看病してくれたり。韓国人同士でも年上は年下の世話をよくするのだが、彼らの関係を見ていて、上下関係が日本より厳しいことにすぐに気がついた。特に男性の場合は。年の若い子たちは絶対に年上のお兄さんたちには逆らわない。お兄さんたちの中には武術留学で来ている人たちがたくさんいて、体格もいいし、外見もちょっとコワモテな人が多かったからかもしれないけど・・・。いつも訓練用の槍や剣を持って歩いているので、弟たちは震えあがっていた。
オッパたちはもう徴兵を終えて来ているひとばかりで、まだ軍隊には行っていない若い子たちとはやっぱり全然雰囲気が違った。まだの子たちは、あどけない少年と言う感じ。日本の同世代の男の子たちよりも幼く感じた。オッパたちは、さすが軍隊に行っているだけあって、料理も一通りはできるし、自分のことは自分できちんとやりますというような人が多かった。オッパたちはスラング・・・というか罵り言葉が大好き。挨拶のように使っている。「軍隊に行くとこうなるのさ」と言って彼らは笑うが、いつもそばで聞いている私たちは「ヨク」と呼ばれるその罵り言葉だけをいくつもしっかりと覚えてしまったのであった。
仲のいいクラスメイトが軍隊に行くと言って、帰国していくことがたびたびあった。みな韓国男児である以上仕方ないというあきらめと、これから始まる過酷な生活を覚悟していると口にした。軍隊生活の過酷さは、オッパたちに何度も聞かされていた。中国で韓国人と交流して、初めて知ったことだった。徴兵制のない今の日本では想像もできないことだ。改めて、38度線で隔てられた韓国と北朝鮮の状況を考えさせられた。中国に来なかったら、それについて深く考えることはきっとなかっただろう。

中国人の友達が携帯電話で話している。
「ちょっと遅れます。9時に行きますですので。今、友達を会っています。」
切るのを待って、すかさず言う。
「『ます』のあとに『です』は来ないよ。『九時に行きますので』って言ったほうがいいよ。『会う』のとき、助詞は『を』じゃないよ。この場合は『友達に会っています』か、『友達と会っています』が正しいんだよ。」
「そっか。いつも直してくれて、私は嬉しいだよ。」
「『嬉しい』は形容詞だから『嬉しいよ』でいいよ。形容動詞のときは『きれいだよ』とか『静かだよ』って、『だよ』でいいんだけどね。」
「ふーん。『きれい』は、形容動詞か。形容詞かと思ってたよ。教えてくれてありがたいだよ。」
「『ありがたい』は・・・」
この会話を聞いた方は、ちょっとしつこいと思われるかもしれないが、私は親しい留学生と会話しているとき、日本語の会話で何度も同じところを間違う場合は、直すことにしている。(真剣に話し込んでいるときや、話の腰を折りそうなときは除くが)彼女たちが、それを望んでいるからだ。
あるとき、留学生の一人がこう言った。
「私の日本語どう思う?」
「上手だよ」
「嘘!間違っているところたくさんあるでしょう」
「そりゃ、たまにはあるけど、外国人なんだから完璧じゃない部分もあって当然なんじゃない?」
「そうじゃなくて、日本人の友達は誰も、間違っていても直してくれないんだよ。間違っているよとか言ったら、私が傷つくと思ってるんでしょう。だから、私の日本語、どこがヘンなのかわからない。」
そういわれてハッとした。ああ、こんなところにも考え方の違いがあるんだ。言われて見れば、私も彼女がいつも同じところで間違っているな、とは思いながらも訂正したことは一度もなかった。日本人には、相手のミスを口に出して訂正することを、相手に対して悪いと思ってしまう独特の思いやりというのか、遠慮がある。
中国人数人と暮らしていたときを思い出した。私の中国語は、彼女たちに鍛えられたと言ってもいい。私がちょっと言い間違うと、彼女たちはすぐに「違~う!」と直してきた。最初はいちいち直されるので、めちゃくちゃ凹んだときもあった。でも、結果的には中国語力を伸ばすのにすごく役立った。彼女たちは私の専属の先生だった。「間違いは、直してあげたほうが後々その人のためになる。」そういう考え方なのだ。
この違いに気づいてから、仲のいい友達に対しては、積極的に日本語会話の間違いを直したり、気づいたことは言うようにしている。自分も中国語や韓国語を学んでよくわかっているが、早めに直さないと定着してしまい、直りづらくなる。
語学の「間違い」について、もう一つ気づいたのは、日本人は外国語の授業で、間違いを恐れて発言しないことが多いということだ。中国人は間違っていても堂々と話す。間違っていると言われることを恐れていないからだと思う。考えてみれば外国人なのだから、間違うのは当然なわけで、授業は練習の場なのだし、間違いを訂正してもらうことによって語学は上達していくのではないかと思う。間違うことは恥ずかしいことではないのだと、中国人のクラスメイトに教えてもらった気がする。

北京を訪問する前、荷物を準備していたときのこと。長期滞在になるので、何を持っていけば良いだろう、北京で買えないものはもっていかないと・・・と、化粧品、文房具、薬、非常食など、リストを作ってスーツケースに詰めた。友達の女の子たちは日本の化粧品を喜ぶので、お土産に有名ブランドのものを選んでいくつか購入。気がつくと結構な荷物になった。留学中のイメージで、あれもこれも中国にはないだろうと思ったのだ。
留学中は、日本にいるときと同じように生活しようと思ったら、簡単に手に入らないものがたくさんあった。まず、リンス・トリートメント類がない。当時売られていたのは外資系のものも含めてリンスインシャンプーが一般的で、髪を洗うとごわごわとし、乾かすとひっかかって櫛が通らなかった。化粧落としのクレンジングもハルビンでは手に入りにくかったのでとても困った。こういうものはまとめて日本から送ってもらってしのいでいた。留学生で分け合ったりもよくしていた。以前も述べたが、食品類も洋食系の素材はほとんど手に入らなかったので、これも日本からの「支援物資」に頼る。(マヨネーズは瓶に入った日本系企業のものが流通し始めていた。)ハルビンはとても寒くて、寒がりの私にはカイロが重宝したが、それもすぐなくなった。もちろんそんな便利なものは当時どこを探しても売っていなかった。カイロについては、ハルビンの友達に見せたら、「こんないいものがあるの!」と驚いて、欲しがったので、帰国したときに大量に買って持って行った覚えがある。
一番びっくりしたのは、普通の大学ノートやメモ帳が近くでは手に入らなかったこと。大学構内の文房具店や、付近のお店で売られているのはノートではなく切り離す形状の便せんのようなもの。大学の近くで買うと、大学の名前が入っていた。だが、問題はその紙質。オブラートのように薄い。あまりにも薄くて、ちょっと強く引っ張ったり、ボールペンで強く書いたら破けてしまう。日本から一冊しか持ってきていなかったノートとメモ帳を大切に使っていたが、向こうに行ったばかりの頃は覚えることがたくさんあった。今のように携帯や電子手帳にメモできる訳じゃなし、紙はどうしても必要だった。日本から持って行った大切な紙類はすぐに使い切った。仕方ないのでその便せんを使うことに・・・。非常に使いにくかったが、授業の内容や日常生活でよく使う単語をまめに書き込んだ。鞄に入れていても表紙がしっかりしていないので、すぐヨレヨレになってしまう。慎重に扱った。その便せんは今でも大切に持っている。日本に帰れば、貰ったり買ったりしたノートやメモが机の中に山ほどあるのに・・・と思った。日本ではちょっと書いたらすぐ捨ててしまうようなメモ紙が実は貴重なものなのだということを知ったのだった。
留学中は日本から持ってきた物をとても大切に使った。母が送ってきた荷物に入っていた日本のスーパーの袋でさえ重宝したので、捨てずに何度も使った。当時中国では買い物をしても今にも破けそうな薄い袋しかくれず、運んでいるときに破けてしまうことも多かった。日本のように頑丈な袋はなかなかなかったのだ。洋服のショップのちょっとかわいい色のビニールの袋などは持っていると、ハルビンの友達にほしいと言われたこともあった。
ところが帰国する数ヶ月前から、大学の周りにいくつもスーパーが建ち始めた。それまでは小売店や市場で買い物していたが、スーパーに行けばすべて揃うようになった。商品の種類も徐々に充実してきているのがわかった。トリートメントも見かけるようになった。それと同時に街には高速道路がものすごい早さで建設されていた。それの完成を待たずして帰国したが、あの勢いで発展していったのだったら、今のハルビンはきっと昔の面影は跡形もないのではないだろうか。
8年ぶりに訪れた北京の街では、日本にいるときと同じ生活をするのはもはや難しいことではなくなっていた。手に入れようと思ったら、価格を気にしなければ何でもある。洋食の素材も、カイロも、クレンジングも。ノートもスーパーで山のように積み上げられていた。もちろん袋も立派になった。今回日本から買ってきた化粧品やお菓子などのお土産の中で、北京で売っているものもあった。日本のカレールーまで売っているのには驚いた。日本の大手企業が競うように進出しているのだ。その上、今は店頭にない海外のものでも、ネットでほとんどのものが手に入るようになっている。
スーパーに行くだけでも、中国の著しい経済成長の様子を知ることができた。確かにとても便利になった。次回からは荷物は少なめでも大丈夫だろう。だけど、昔の中国は、私に物は大切に使わないといけないと気づかせてくれたのだ。今は便利になったけど、無くなってしまったものもあるような気がした。時々、昔の中国がちょっと懐かしく思うのだった。

ある日の午後、天気が良かったので近くの公園をぶらぶら歩いてみると、ベンチのところにお年寄りが集まっていた。近づいてみると、トランプでポーカーをしている。遊んでいたのは4人だが、周りに立って眺めたり応援したりしている人が何人もいてとても賑やかだった。みな自宅から小さな折り畳みの椅子と、水筒を持ってきていて、この公園で長い時間を過ごすのだと分かった。また少し行くと、同じような集団が。ゲームは白熱している様子だった。中国人はポーカーでよくお金を賭けるので、もしかしたら賭けているのかもしれなかった。その中の小柄なおじいさんに、毎日来るのかと聞いたら、
「天気のいい日は、ほぼ毎日来るよ。メンバーはいつも同じさ。夕方までいるよ」
とおっしゃる。うちの祖母も通っている日本の「老人クラブ」のようなものに思えた。
公園を後にして、大通りの方へ歩いていくと、曲がり角のところで車が渋滞しているのが見えた。車の列の向こう側に、黄色い帽子がちらほら見える。あ!下校時刻だ。この近くの小学校の授業が終わり、生徒が一斉に門から出てきたのだ。甲高く賑やかな声が聞こえる。生徒たちは、みな赤いスカーフを巻いて、黄色い帽子を被っている。中国では両親や祖父母が学校まで迎えに来るのが普通なので、迎えに来た人たちと生徒で学校の回りに人垣が幾重にもできていて、(中国の学校の規模は大きく、生徒数も多い。)それが車道にもはみ出し、渋滞を引き起こしているのだった。
中国では共働きの家が多いので、おじいちゃん、おばあちゃんが子供の世話をしている場合が多い。結婚しても子供をいつまでも作らないと、
「面倒を見てあげるから、早く子供を生みなさい。私たちが若いうちじゃないと育てられないわ」
などと両親から言われることもある。迎えに来ている人の中にもお年寄りが多く見られた。さっき公園でポーカーを見ていたおばあさんが、私の近くに立っているのに気づく。彼女もお孫さんを迎えに来たのだろう。
迎えの人の中に、公的機関と思われる制服を着ている人がちらほら・・・、友人の話では中国では「ちょっとお迎えに・・・」と、抜けることができる職場も多いそうだ。登下校に付き添う中国の親が過保護に見えるかもしれないが、中国は車の運転が荒く、信号が無い通りが多いので、子供だけで道を渡るのは危ないし、治安も決していいとは言えない。子供がいる親としては、自分で送り迎えするのが一番安心だろう。
人垣は左右に徐々に流れていって、少しずつ車の渋滞も緩和されていく。子供たちの元気な声が遠ざかり、街の雑音の中に消えていった。北京のある日の午後の散策。私にはもう、留学時代から見慣れた風景だった。

泊まっているホテルの近くのパン屋の前を通ると、ショーウィンドウにケーキのレプリカがずらりと並べられていた。中国では、ケーキ専門店というのはあまり見たことがなく、パン屋がパンとケーキを一緒に売っていることが多い。(最近は外資系のパン屋も増えてきて、日本人の口にあったパンにめぐりあえることもあるが、基本的に中国のパンはスカスカしていて日本人が美味しいと感じられるものは少ない。)
ケーキのデザインは、どれもこれも日本では見られないようなものばかり!青とかグリーンとか、紫等の色をふんだんに使っていて、すごくカラフル。クリームでコテコテにデコレーションしたものが多く、果物はあまり載っていない。ウエディングケーキ顔負けのゴージャスなものもある。
中に入って聞いてみたら、まだまだ種類があるというので、カタログを見せてもらったが、この中に掲載されているものが、展示されているものよりすごい。お年寄りの誕生日に贈るシリーズの中には、二段のケーキの上に生クリームで大きく真っ赤な桃が作られ、(桃は、長寿を表す縁起物。)その上に鶴が二羽描かれているものがあった。正面にはマジパンで作られたお年寄りのお人形。一段目の回りにはあざやかなグリーンの松の木と鶴が交互にいくつも並ぶ。これは食用というより、観賞用といったほうがいいかもしれない。日本ではスタンダードなシンプルで生クリームとイチゴだけのケーキより、こういうデザインのほうが、派手なものを好む中国の人にはうけるのだろう。
パンと同じように、中国のケーキもあまり美味しいとはいえない。新鮮な牛乳の流通が悪いというのも原因の一つだと思う。留学していたころは、乳製品を手に入れるのは一苦労だった。最近はチーズやヨーグルトはよく見かけるようになったが、生クリームは今でも外資系のスーパー以外では見ることができない。
ハルビンに留学していたころ、誰かの誕生日があると、大学近くに一軒しかないパン屋によくケーキを買いに行った。日本人や韓国人には誕生日にケーキを食べる習慣があるので、私たち留学生はそのお店のお得意様だった。ケーキは当時でも80元~120元(約1200円~1800円)くらいしたので、中国の物価から考えて、かなり高い買い物だった。ディスプレイのケーキは紫や真っピンクで美味しそう・・・とはとても思えないものだったので、果物を使ったのはないのかというと、店員のお姉さんはしばらく考えてから、
「そこの市場で好きな果物買ってきな。それで作ってあげるから。」
と言ったので、日本のケーキには何が載っていたかよく考えながら果物を選ぶ。残念ながら、王道のイチゴは売っている季節が限られていてなかなか手に入らないので、キウィ、梨、葡萄、桃などを買うことに。お姉さんは、それらの果物が豪快に一番上に積み上げられたケーキを作ってくれた。日本ではちょっと見られないケーキ。その後、留学生の注文するケーキはフルーツケーキになった。
当時、中国では誕生日にケーキを食べる人はめずらしくて、中国人の誕生会に呼ばれたときにケーキを持っていったらとても喜ばれた。そのときももちろんフルーツケーキ。とても豪華なので歓声があがった。ケーキを買うと「生日快楽(誕生日おめでとう)」と書かれた紙の王冠を付けてくれるので、それをかぶって写真撮影。今では中国人の生活もかなり西洋化されてきて、特に子供の誕生日には日本と同じように、ケーキは欠かせないものとなってきているようだ。そのうちに中国でも、美味しいケーキをその辺で手に入れられるようになるかもしれない。
そういえば、おととしアモイで誕生日を過ごしたときは、友達が買ってきてくれたケーキにはふんだんに果物が使われていた。マンゴー、スターフルーツ、ドラゴンフルーツ、パイン・・・。福建省はフルーツ天国だから、こういうケーキが普通なのかもしれない。一口食べて、懐かしいハルビンのケーキ屋さんを思い出した。

友人が「美容院に行くからついてきて」と言った。中国や韓国では、友達が美容院に行くときに友達に付き添わせるというのはよくあることだ。美容院は中国語では「理髪店」という。近くにある美容院の前まで行くと、若い美容師さんが二人入り口に立っていて、ドアを開けてくれた。
店の中にはトロフィーがいくつも飾られていた。美容師の大会で上位入賞をしたスタイリストがいると壁に大きく書かれていて、その人が外国人の先生と撮った写真が飾られていた。価格表を見ると、彼が切ると他のスタッフが切るより高くなると書かれていた。(このように、外から見えるようにトロフィーが飾られている店は実はたくさんある。)
美容師さんは、私の長い髪を見て、「あんたはいいの?」と聞いたが、私は切ってもらう勇気がなくてお断りした。というのは、留学していたときの中国の美容室のイメージが思い出されて、お願いしますという気分にはとてもなれなかったからだ・・・。
ハルビン留学中に行った大学の近くの美容院を思い出す。まず、驚いたのが洗面所のようなところ(※頭を洗うためのところではない)で、水で頭を洗われたこと。冷たくて飛び上がった。洗髪後、頭がべちゃべちゃのままタオルをほいっと渡されて、自分で拭きながら鏡の前へと移動。パーマでロングだった髪をストレートボブにしたかったのだが、日本のように徐々に切っていくわけではく、美容師がいきなり「バツン」と20センチくらい切ったので言葉を失う。カットは5分くらいで終了。ブロウは、なぜか痛いし・・・。ストレートパーマをかけた髪は翌日パサパサに。
私の他にもその美容院に行った留学生がいたが、左右の長さが違う斬新なスタイルにされ、しばらく帽子を被る生活を送る羽目になった。青い髪に染めるはずだった韓国人留学生の頭が、真っ白になったことも。服にパーマ液や、カラーがべったりついてとれないと文句を言う人もいた。
ハルビンの中心部にいくと日本式と看板に書かれた美容院があったが、人が入っているのを見たことがなかった。外に貼ってある価格表を見ると、普通の美容院の5倍以上。日本の価格と比べるとちょっと安いのだけど、留学中は中国人と同じ金銭感覚で生活していたので、入る気にはなれなかった。そんなわけで女子留学生たちは、お互いに髪を切り合ってなんとか帰国まで乗り切っていた。
それに比べると、今は格段によくなった。泡立たせすぎ!と思うくらいの丁寧なシャンプー、カットも時間をかけてするし、カット料金だけで15分くらい肩と頭をマッサージまでしてくれる。ブロウも一応きちんとしているように見えた。価格は昔に比べるとだいぶ上がったけど。
それにしても、スタッフの数が多い。お客さん用の椅子が10くらいあったが、スタッフはその倍くらいいるように思った。入り口に立ちっぱなしで、お客が来るとドアを開けてくれるスタッフが2人もいるところを見ると、人が余っているような気がするのだが・・・。一人のスタッフが責任を持って、最後まで一人のお客さんをスタイリングするというのではなく、何人かで流れ作業のようにしていたのが何となく慌ただしく感じた。あと、切られた毛がいつまでも散らばっていたり、奥でヒマな美容師さんたちが、たばこを吸ったり肉まんを食べていたりするところはちょっと日本と違うなと思う。
レジの前には、明らかに日本のヘアスタイル雑誌の写真を使った雑誌が積み上げられていた。流行のスタイルは、最近では日本でも中国でも韓国でもあまり変わらなくなってきているのだ。実際今では、日本人が中国で富裕層や駐在員向けに美容院を開くことも増えてきている。
そういえば、昔は青空床屋もあったけど、今は全然見ない。あれはあれで風情があってよかったのに。切ってもらう勇気はなかったけれど・・・。

北京から汽車で8時間かけて包頭へ。包頭(バオトウ)に着いた翌日、結婚式に参加した。
中国人が「私たち、まだ籍を入れただけなの。」などということがあるが、中国では、籍を入れただけでは夫婦という感覚はあまりなく、式を挙げて初めて晴れて正式な夫婦となる・・・といった感じなので、日本とはちょっと違う。というわけで、結婚式は夫婦にとってもその親族にとってもとても重要な意味のある儀式、ということになる。籍だけ入れて、いつまでも式を挙げないでいると、両方の両親から式はいつ挙げるのだと何度も催促されてしまう。
結婚式は日曜日の正午ごろ、ホテルの宴会場で行われた。ホテルの入り口の地面には、爆竹を並べて大きな「喜」と言う字が作られていた。これは式が始まる前に盛大に鳴らされる。
会場の入り口とステージの後ろには二人の結婚写真が大きく引き伸ばされて飾られていた。中国では結婚が決まったら、専門の写真館で丸一日かけて結婚写真を撮る。何種類かの衣装が着られて、メイクも時間をかけてばっちりしてもらえる。ちゃんとした演出家がいて、女優顔負けの表情としぐさになるよう指示してくれる。希望すれば野外でも撮影してくれる。出来上がった写真はクマ・ホクロ・皺・体型などが修整されていて、本人たちとは分からないくらい(特に女性は)。衣装は皇帝&皇后のようなものもあるし、ベルサイユの○らのようなものもあるので、選ぶものによってはコスプレになってしまう場合もあるが・・・。
中国のご祝儀は赤い袋。ご祝儀の金額は地域によって違うようだが、包頭あたりでは200元~500元くらいらしい。新郎新婦は式が始まる前から会場に入って、招待客を迎えていた。色白でスタイルの良い花嫁さんは真っ赤なドレスを着ていて、お化粧もネイルも隙がないくらいきちんとしていた。専門のメイクさんがいるのは、日本と変わらないようだ。伝統的な中国の結婚式では、女性は赤い服を着るのだそうだが、最近の若い女性はウエディングドレスを着る人もいるし、あまりこだわらなくなってきているらしい。
新郎新婦は各テーブルをグラスを持って回り、一人ずつと乾杯(中国の乾杯は飲み干さなければならい。)して歩くので、式が終わるころには新郎が泥酔して意識がもうろうとしていることも多い。たいていビールではなくて、数十度ある白酒なので大変なことになる。女性にお酒は強要しないので、新婦や女性客はジュースでカンベンしてもらえる。
式を進行する司会者がいて、友人や親戚の祝辞があり、ケーキのカット、指輪の交換があるのは日本と同じだった。その後、式場のスタッフの歌や楽器の演奏がしばらく続く。中国の結婚式は、日本の結婚式よりもくだけた感じで、ジーンズで来る人もいるくらいで、気合を入れてドレスアップしている人はあまり見ない。
料理は中華料理で、テーブルに乗り切らないくらい運ばれてくる。私が外国人なので、周りの人は気を遣って、ひたすらお皿に取り分けてくれた。招待客は新郎新婦がいるステージをあまり見ていない。とにかく食べて、ひたすら乾杯。式も終盤になると、ぞろぞろと帰っていく人が!最後まで見なくていいんだ・・・。
私のテーブルに新郎が回ってきたときに、新郎がなんだか疲れた表情をしていることに気づく。新郎新婦はその2、3日前からお互いの親戚や友人たちとの飲み会が続いているのだそうだ。下手したら徹夜になることも。そのせいか。中国人と結婚するなら、胃袋を鍛えておかないといけないかも・・・。

留学中に何度か行ったことのある秀水市場へ。秀水市場は、もともとは屋外にあった大きな市場だったが、2006年に巨大なビルが建てられ、その中に移されてリニューアルした。今の秀水市場は地下鉄の永安里駅直結で、冬の寒いときや雨の日でも落ち着いてショッピングを楽しめ、前より便利になった。
昔の秀水市場は、おおっぴらに世界のあらゆる有名ブランドのニセモノを売っていた。時計、鞄、靴、服...えっ、こんなブランドのものまであるの!?と驚くものもあったが、新しい秀水はそこまでひどくないように思う。中国はWTOに加盟したし、北京オリンピックもあったので、海外の厳しい目が中国にむけられる。中国政府も動かざるを得なかったようで、北京当局の抜き打ち検査も時々あるとのことだった。それでもニセモノはなかなかなくならないのだが...。
今回は、鞄の売り場で店頭に並ぶのを少し見かけたくらい。でも、実際に鞄を見ていると、「オネサン、ヴィトンカバンアル!」などと日本語で話しかけてくる。しつこい客引きは、腕をつかんだりする。そこで立ち止まると、店の奥の見えないところから、ニセモノをじゃんじゃん出してくる。こういうところで買う日本人観光客が多いんだろうなぁ。
ここのお客は大半が外国人なので、店員は英語が堪能・・・とまでは行かないが、みな簡単な会話くらいはできる。片言の日本語ができる人もいる。服装や持ち物から日本人を見分け、オモシロ日本語で話しかけてきたりする。みな大声で話しかけてくるので、威勢のいいお魚屋さんみたい。
ここには、衣料品や鞄、時計やアクセサリー類のほかに、お土産に最適な中国の工芸品も売っている。交渉次第で、その辺のデパートなどより安く買える。私はブランド物には全く興味がないが、工芸品が好きなのでこの秀水に留学時代からよく来ていた。チャイナドレスやその生地で作られた鞄、敷物、ビーズのサンダル、中国チックなキーホルダー、掛け軸、景泰藍の食器、毛沢東グッズ...見ているだけで楽しくなる。留学時代と比べて、商品の質はよくなり、種類も格段に増えた。
価格はかなりふっかけらる場合が多いので、値段交渉をすることになる。頑張り次第で300元が30元になったりもする。
「高すぎるわ~。いらない!」と帰るフリをするのが一番効果的。瞬時に値が下がる。その前に何軒かまわって、相場を知っておくのも大切だ。
あるお店の前に行くと、甲高い笑い声が聞こえた。店員の若い女の子たちが、お客の白人男性と英語で談笑していた。品揃えがなかなかいいお店だったので、シルク生地の鞄を手にとって眺めていると、かわいらしい女の子が一人、私の横にやってきた。
「気に入った?80元だよ」
私はそれには答えないで、
「あなたたち英語が上手ねぇ~~!」
と褒めた。
「そう?どうもありがとう。彼は常連で、よく来ては私たちに冗談を言ったりするのよ。」
彼女は、他の店員に何か話しかけたが、私には聞き取れない。
「どこの方言?」
「安徽だよ。あたしたちはみんな安徽から出稼ぎに来てるの。ここのオーナも安徽の人なの。」
「連休だけど(この日は国慶節の連休中だった)実家に帰らないの?」
「帰れないよ~、忙しいもん。毎日朝から晩まで10時間以上立ちっ放しだよ。」
彼女は19歳。北京に来て2年。従業員の宿舎に住んでいる。くりっとした大きな目に長い黒髪。笑顔が素敵だった。「大変な仕事だよ」と言ったが、いきいきと働いていた。私が日本人だよというと、彼女は日本人客は多いけど、世間話をしたことはないと言って、興味を示したようだった。私たちは、オーナーに隠れて20分くらいおしゃべりをした。
彼女は私が買いたいものを全て最底値で売ってくれた。最後に安徽語で、ありがとうはなんていうの?と聞いたら「シーシー」だよと言ったので、シーシーといって分かれた。
彼女は私の名前をメモし、北京にきたらまた来てね!と言った。
帰るフリをしたり、けんか腰で値切る方法もあるけど、お店の人と仲良くなっても安くしてくれるのだ。その後、彼女にはがきをだしたら、律儀に返事をくれた。たまには物を買うだけじゃなくて、お店の人と交流してみるのもいいと思う。オモシロ日本語を直してあげるのもいいかもしれない。
