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ディレクターズ・カット

今村直樹プロフィール

今村直樹

1954年岐阜県生まれ。上智大学新聞学科卒業後、テレコム・ジャパン、サン・アドを経て、フリーランスに。
現在、今村直樹事務所、CM制作者集団・ライブラリーを主催。
サントリー、資生堂、トヨタ自動車、日産自動車、メルセデス・べンツ、味の素、日本通運、ソニー生命、NTTコミュニケーションズ、NTTドコモ、KDDI、大塚製薬、ダイワハウスなど、20数年のディレクター歴の間に、数多くのクライアントのCMを、企画・演出してきました。
代表作に、JR東日本「房総ビュー・エクスプレス」「故郷になってください」
JR東海「のぞみ大通り」「ワイドビューで行こう」
松下電工「きれいなおねいさんは好きですか?」
大和ハウスの企業広告「共創共生・郡上八幡」「奈良・通り庭」など。

the catcher in the LIVERARY
今村直樹となかまたちのブログ



第84回 おいしいを、CMで③

北海道のみなさん、こんにちは。

いよいよ、ビールのおいしい季節になりました。
札幌の、カラッと乾いた空気の中、
ビヤガーデンで、よく冷えた生ビールを飲みたいものです。

そう言えば、今年、
ぼくはビールのCMを手がけませんでしたが、
この時期、盛んにビールのCMがオンエアーされているはず。
でも、どうなんでしょう?
もうひとつ、元気がない気もしますね。

ところで、みなさんは、
CMに写る、ビールのグラスや缶を、
おいしそうに見せるためだけに働く人がいるのを、
ご存知ですか?

たとえば、タレントさんがビールを飲む、
グラスや、缶(瓶の場合もある)を片手に演技する、
なんていうシーンがあると、
いくつも同じものを用意しておいて、
グラスにはちょうどいい高さの泡が、
缶や瓶には、いい感じで水滴が
ついているようにスタンバイする。
そして、ワンテイクごとに、サッと、
それをタレントさんに手渡す。
そのためのスタッフ(ぼくらはズバリ、
「シズル」と呼んでいます)が、いるんです。

もっとも、1980年代中頃までは、そんなスタッフは存在せず、
もっぱら、プロダクション・マネージャーと呼ばれる
若い人たちの仕事でした。
彼らが、慣れない手つきでグラスにビールを注ぎ、
「泡が少ない!」だの、
「もっとグラスを冷えた感じに!」などと言われて、
東急ハンズあたりで買ってきた霧吹きでグラスに水滴をつける。
やっている本人の額に、
ちょうどいい感じで、汗のしずくが・・・
憧れの女性タレントに、
「いいのよ、落ち着いてしっかりやりなさい!」
なんて声をかけられたら、一生の宝。
ビールのCMと言えば、毎回、
そんな光景が繰り広げられていたのです。

でも、そんな具合だから、なかなかうまく行きません。
時間もかかるし、まして、屋外での撮影なら、
刻々と光が変わり、強風が吹くことだってある
ぼくの場合、フランスのニースで撮影したけれど、
どうしてもいいビールグラスの表情が撮れなくて、
帰国後、今度はサイパンに行って、
もう一度撮り直したということがありました。
いいタイミングで、おいしそうに写るビールを用意する。
それだけでも、実は、大変な(お金もかかる)仕事なのです。

プロが登場してから、環境は、激変しました。
グラスの汗(水滴)が、すぐなくならないよう、
あらかじめシリコンを塗っておく。
グラスに水滴を付けるための霧吹きも、
きめ細かいのと荒いのを使い分けて。
仕上げに、注射器で、いい位置に大きめの水滴をつける。
グラスの中の泡が、いい感じで「踊る」ように、
カメラが回る直前に、空の注射器で空気を入れる。
そんな工夫を、見事にやってくれるようになりました。
実はこの、シズルのプロというのが、
そう何人もいないため、
(あまり大きな声では言えませんが)
いろんなビール会社のCMを、同じ人が掛け持ちで、
ということだってあるんです。
慎重な人、大胆な人、
繊細な仕事をする人、
格好から入る人(注射器や霧吹きを
高価で格好いいケースに入れて現れるというような)、
シズルひとつ、なかなかどうして、
個性が現れるので、だれでもいいというわけには行きません。
ビール各社、シズルはこの人で!と決めていて、
撮影のハイシーズンになると、みんな大忙しです。

前にお話ししたように、日本のCMは、
おいしそうに見せる工夫、いわゆるシズルの表現に
あまり積極的ではありませんでした。
1990年前後になると、ビール各社が海外のCMを集めて、
いかにビールをおいしそうに見せているか、
研究するようになってきました。
いま思い返せば、キリンも、サントリーも、サッポロも、
同じような時期に、ビールのシズル表現に積極的になり、
(アサヒビールは、海外にまで行って撮影するようになり)
そしてそんな時期に、シズル専門のスタッフが登場しました。

おかげで、以前は、あんなに大変だった
ビールのシズル撮影が、
いまでは、とてもスマートに、短時間で
うまく行くようになりました。
CMなんだから、
ビールをおいしそうに見せることはあたり前。
でも、よく見ると、どこも、どのCMも、
同じようなことをしているように思えなくもありません。
つまり、もうやりつくされ、
個性がなくなってきたのかもしれません。

カメラのそばで、若い人が、
汗だくになって慣れない手つきでビールを注いでいた時代が、
いまとなっては懐かしい。
見るに見かねたカメラマンが、
「ダメだなぁ!おれに貸してみろ!」
なんて、自分でグラスにビールを注ぎ始める。
スタジオでなら、それだけで深夜まで延々時間がかかる。
でも、それは、自分が担当したビールのCMを、
おいしそうに見せたい。ただ、その一念。
そんな「手作り」の現場にこそ、実は、
大切な何かがあった気がしないでもありません。

第83回 おいしいを、CMで②

北海道のみなさん、こんにちは。

CMを作っていると、ごく日常的に、
「シズル感」という言葉を使います。
シズル感とは、食べ物、飲み物などの商品を、
映像でいかにおいしそうに見せるかの表現のこと。
英語でsizzle、本来の意味は、
揚げ物がジュージューいっている様の擬音語だそうです。

日本のコマーシャルは、そのシズル感の表現が苦手だと、
ずっと言われていました。
でも、80年代も後半になると、
自社の商品をいかにおいしそうに見せるか、
そこにこだわり、「シズル感のある表現」を
コマーシャルの主役にすえることで成功を収める
クライアントが現れるようになっていきました。
その代表が、アサヒビールと味の素です。

当時、頻繁に海外ロケに行くようになっていたので、
外国、特にアメリカで見るビールのコマーシャルには、
日本にはないシズル感があることに気がつきはじめていました。
ぼくも、そして多くのクリエーターたち、
おそらくクライアントも。
ビールの泡とか、冷えたグラスの水滴、
ビールの瓶や缶から水や氷が滴り落ちる。
そんな、まさに「シズル感」あふれる表現のオンパレード。
でも、これには、理由がありました。
アメリカのCMでは、人がビールを飲むシーンを
写してはいけないという規制があったのです。
未成年への配慮や、アルコール依存症が
深刻な社会問題になっていたこともあるでしょう。
なるほど、よく見ると、人は出ていても、
ビールを持っていたり、乾杯したりしているだけ。
ビールに、一切、口をつけていない。
でもまるで、おいしそうに飲んでいるように、思える。
そのために、しつこいくらいの工夫が施されていたのです。

それに対して、日本のコマーシャルは、
タレントがいかにおいしそうにビールを飲むかに、
表現のポイントがありました。
(基本的に、それはいまも変わっていませんが。)
でも、タレントよりも、ビールそのもの、
ビールのおいしそうな感じを、
コマーシャルの主役にしてもいいのではないか、
そう思うクライアントが登場したのです。
それが、アサヒビールでした。
アサヒスーパードライの登場と共に、
アサヒビールは、シズル感の表現に力を注ぐようになります。

一方、食品でも、もっと商品のおいしそうな表情を
真正面から表現した方がいいと考えるクライアントが
現れました。
味の素です。
ぼくも、当時、盛んに味の素のコマーシャルを手がけていました。
そして、ある日、宣伝部長が
こんなことを言ったのをよく覚えています。

「タレントの撮影が終わると、スタジオの隅っこで、
商品やシズルを撮る。ほんとうは、商品が主役なはずなのに、
ついでに撮るみたいに。おれは、あれが許せないんだよ。」

確かに、そうでした。
有名タレントに、何をさせ、何を言わせるか。
表現のポイントはそこにあり、
スタッフ一丸になって、それに集中する。
そして、タレントが「お疲れさま」と言って出て行った後、
急にスタジオが暗くなり、
商品を置く台の周辺にスタッフが集まり、
小さな商品を取り囲んでいる。
ぼくらは、別に、気を抜いているのでも、
いいかげんに撮影しているのでもなかったのですが、
タレントを撮る時に比べたら、いかにも地味。
もっと、商品そのものを主人公に!
クライアントがそう思うのも
無理もない光景だったかもしれません。

そして、その後、味の素は、
アメリカのスタッフを起用して自社の商品のシズルを、
撮影するようになります。
たとえば、冷凍食品の食材を「炒める・揚げる」、
ドレッシングやマヨネーズの
「みずみずしさ・とろみ感」を出す、という具合に。
アメリカの、食品のシズル専門のスタッフに
自社の商品を撮影してもらうため、
クライアントや日本のプロダクションが、
ニューヨークまで頻繁にでかけているのを、
ぼくも身近に見ていました。
確か、アサヒビールでも、同様に、しばしば
アメリカのスタッフを起用してシズルを撮っていたはずです。

もちろん、それには多額の費用がかかります。
でも、味の素もアサヒビールも、
シズル感をコマーシャルの中心にすえ、
それに力を注ぐことで、めざましく業績を上げたのですから、
その甲斐は、十分にあったのだと思います。

第82回 おいしいを、CMで。①

北海道のみなさん、こんにちは。

わが家のキッチンには、食器棚の端っこに、
料理本コーナーがあります。
いつの間にか、かなりのスペースを取るように
なってしまったので、最近、整理しました。
気がついたら、料理本が増えに増えていたわけですが、
かつて大活躍して、最近ではまったく開かなくなった
本も、たくさんあります。
いまでも時々手に取る本、残したい本、処分していい本・・・
と選り分けていて、思いました。
日本の料理本、ずいぶんがんばってきたんだなぁ、と。

この本あたりが、きっかけになったのかな?と思いました。
『ごちそうさまが、ききたくて。』
栗原はるみさんが1992年に出した、初めての本。
素人目線の家庭料理の本ということ自体が、
当時はまだ新鮮でした。
そして、趣味のいい、食べることに目がない家庭に
ありそうな器、スタジオではなく、家のダイニングで、
時にはテーブルを外に持ち出して、
自然な光で撮った写真に、新しさを感じました。
最初に本屋で見た時、
「ああ、これで日本の料理本の流れが変わるかもしれない」
と思ったものです。

その後、ご存知のように、
大勢の「素人料理研究家」がデビューしました。
何人かのスターも生まれ、
ついには国会議員になる人まで現れて、
カリスマ主婦ブームを引き起こしましたね。
こうなると、お金の匂いがプンプンする、
ビジネスの世界のできごとです。

イタリアンや和食の世界から、プロならではの
「極意本」も数えきれないくらい登場しました。
テレビ番組「料理の鉄人」の影響もあったでしょう。
スター料理人が、大勢誕生しました。
(もちろん、CMにも引っ張りダコでした。)

本屋の料理本コーナーは、
隅っこにある実用本コーナーを離れて、
どんどんレジに近づいてきました。
目立つ場所に置かれた新刊で、いつもにぎわっています。

振り返ってみると、ぼくの若い頃、
「日本にはいい料理本がない」というのが定説でした。
専門書的、教科書的すぎて、つまらない、というわけです。
雑誌の料理特集などでも、海外の雑誌で見るような、
ウキウキする感じや華やかさがない、と言われていました。
とりわけ、写真が見劣りする。
外国の本や雑誌にあるような、おいしいものの表情を
つかまえようとする迫力に欠けることは、
素人目にもよくわかりました。
「日本には、いい料理写真家がいないからな」
という先輩の発言を、よく聞いたものです。
カメラマンのみならず、
テーブル・トップをコーディネートする、
フード・スタイリストなどの専門家が、
まったく育っていなかったのだと思います。

そして、コマーシャルでも、
海外のCMに見られるような、おいしさの表現が、足りない。
誰もがそう言い、ぼくもそう思っていました。

業界用語で、シズル感、と言います。
たとえば・・・

ビールを注ぐ、グラスから泡がこぼれる。
ビール瓶の上を、水滴がすべり落ちる。
クーラーボックスから、ビールのボトルや缶を
取り出すときの、しずく。
飛び散る氷。

フライパンの上で踊るハンバーグ。
跳ねる、オイル。
焼き上がったハンバーグの上に落ちて行く、
チーズやレタスの「表情」。

チキンとチキンをぶつけて、そこから舞い上がる粉。
静かにオイルの海に沈められるときに起る、泡や蒸気。

超スローモーション撮影で、
シリアルに注がれるミルクさえ、ドラマチックに。

特にアメリカのテレビには、
そんなシズル感たっぷりのコマーシャルがあふれていました。
それに比べると、日本のコマーシャルの「おいしさ表現」は、
実におとなしく感じられたものです。
クライアントも、どちらかと言えば、
タレントがおいしそうに食べてくれることに期待して、
いわゆるシズルカットは、お約束で
CMに入っていればいいものでした。

「日本人に、シズルは向いていないんだよ」とさえ、
堂々と言われていましたっけ。
本や雑誌の料理写真のつまらなさ、
広告写真やコマーシャルでも見劣りするおいしさ表現。
「これはもう、民族性の違いだよ。」
そう言われて、素直に、ぼくもうなずいていました。

第81回 営業のない仕事

北海道のみなさん、こんにちは。

東京は、昨日、「梅雨入りしたと見られる」と報道されました。
でも、もう先週あたりからまるで梅雨のような不安定な天候。
そんななか、なんとしても日差しが欲しい撮影を、
先週から今週にかけて、埼玉・越谷でやっていました。
久しぶりに会うスタッフ、
初めてご一緒するスタッフ、
10年来、20年来の仕事仲間、
今日が初めての撮影現場だと言う新人の撮影助手君、
いろんなスタッフが、総勢40人もいたでしょうか?

ぼくの仕事の現場には、必ずと言っていいほど来てくれて、
なんとなく身内意識を持つ、スタッフもいます。
この大不況の中、元気でやっているかな?
ちゃんと仕事はあるのだろうか?
そんなことも、思います。
たとえば、親しい小道具スタイリストの女性に声をかけます。
「どう、最近?」
そう言えば、なんとなく気持ちが通じて、
うちで食事をするようになったとか、
服は買っていないとか、旅行も近くですませて、
安くて良さそうな宿を探すのだとか、
そんなことを言ってくれます。
ここに来て、CM業界の仕事量が、
相当落ち込んでいるんだな、ということが肌で感じられます。
「今度、ご飯でも食べに行こうよ。」
ぼくにできることは、そんなことぐらいしかありません。

撮影とは、つくづく、「待つ仕事」なのだな、と思います。
それがネライであれば、予算の続く限り、天気を待ちます。
役者は、自分の出番をひたすら待つ精神力を、
持ち続けなければならない仕事です。
そして、ぼくらだって、仕事が来るのを、
ただ待つ以外に、ほとんど手だてがありません。
つまり、営業のない仕事、営業のできない仕事。
そこが、撮影という仕事と他の職種との、
決定的な違いかも知れません。

自慢ではありませんが、ぼくは冗談でも
「仕事を下さい」と言ったことは一度もありません。
と言うのも、かつて自分が会社にいた頃、
盛んに営業をかけてくる人がいて、
ずいぶん嫌な思いをしたという経験があるからです。
何度も電話をかけて会いにきてくれる彼を、
ぼくは、そのうち避けるようになっていきました。
この仕事で、営業はするものではない。
ぼくは、肝に銘じました。
撮影、美術、衣装、音楽など、
それぞれの持ち場はあるけれど、
現場を共有するスタッフである限り、
営業されたからと言って、
その人にお願いしてみようとは思わない。
むしろ、余計なプレッシャーを感じてしまうくらいです。
クリエーター同士、のびのびと、対等でなければいけない。
自分が興味を持つ相手であれば、なおさら、
凛とした距離感を持っていて欲しい。
そう思うのです。
(恋愛にも、それに似たことがありますね。)

では、そんなぼくに、
どうして仕事が来るようになったのか?
もちろん、営業など一切しません。
テレビで目立った、「これは誰がやったのだろう?」
と気になるCMがあって、それをやったのがぼくだとわかり、
いつかこの人とやってみたいと思ってくれる人がいて、
それが徐々に増えて行ったのだと思います。
目立つ。気になる。
それ以上の、と言うより、
それ以外の営業は、ないのかもしれません。
最近、新人が登場しにくいと言われています。
目立つ、気になるCMが少なくなれば、
それに比例して、新人の「営業チャンス」も減ってしまう
のだから、無理もないでしょう。

よく、独立して一本立ちしたカメラマンの方から、
作品集をいただくことがあります。
他に、営業する手段があるかと言われれば、確かに難しい。
でも、ここだけの話、ほとんど場合、
ぼくはそれを見ることがありません。
「自分で、目立ってこい。」
そう思うからです。
新人なのだから、作品集を見ても、
たいした作品があるわけではないことはわかっているのです。
それで、その人の力を推し量ることの方が、間違えやすい。
パワーのある人なら、時間はかかるけれど、
出会うべき人には出会う。
ぼくは、そう信じています。
そのパワーを感じて受け止める力が、
ぼくら、業界の先輩たちになければいけないのですが。

待つ仕事。
営業のない仕事。
どうです?
撮影という仕事、なかなか特殊でしょう?
タフでなければできない仕事だと、つくづく思います。

第80回 C.I.って知っていますか?④

北海道のみなさん、こんにちは。

ほんの思いつきで、C.I.について書きはじめたら、
思いがけず、長い連載になってしまいました。
でも、そろそろ「結論」らしきことを言うタイミングのようです。

ところで、みなさんは、
CMは誰のものだと思われますか?
商品を売るため、イメージアップを図るために
作るのだから、クライアントのもの?
いや、見る人に好感を持たれなくては、
CMを作る意味なんてないのだから、
消費者、つまり「あなた」のもの?
ちょっと待ってください。
CMと言えども、それを考えて、手塩にかけて作り出す、
ぼくら制作者がいなくては生まれないんです。
だから、CMは、作り手のものでしょう。

もちろん、どこにも、正解はありません。
CMは誰のものかなんて、不毛な議論。
クライアントが発信し、作り手が工夫をこらし、
消費者がそれを受け止めて、商品とその企業に好感を持つ。
CMは、そのためのコミュニケーション・ツール。
結果的に購買につながらないと意味はないけれど、
それは、消費者のニーズと商品力しだい。
好感を持たれてなんぼのもの。
CMは、誰のものでもない。

でも、C.I.は、だれのもの?
ロゴが出てきて、大事な企業スローガンを
言ったりするのだから、
そこだけは、クライアントのものでしょう。
そう、実際、こと、C.I.に関しては、
クライアントも目の色を変えて、制作に身を乗り出します。
ここは制作者の言いなりにはならない。
企業姿勢をアピールするのだから、
CMとは切り離して考えて作ろう。
C.I.は、100%クライアントのものだ。
そんな空気が生まれます。
ほとんど場合、C.I.は、CM本体の制作者の手を離れ、
広告代理店やブランディング専門の会社と、
クライアントの間で作られます。
そして、ぼくらは、その「素材」をいただくだけ。
犯すことのできない聖域なのです。

たった1秒や2秒のC.I.だけれど、
たくさんのCMを作る大企業ともなると、
CMを打った数だけC.I.が人の目に触れるのだから、
その効果たるや、絶大です。
ひとつひとつのCMとは違った累積効果があり、
そこからスケールの大きな企業イメージが
生まれることも確かです。
でも、しばしばC.I.は、CM本体と切り離して作られるために、
CMのトーンとはまるで違うものになることがあります。
15秒のCMなら、13秒間、しっとり、
静かな雰囲気だったのが、残り2秒のC.Iで、
大音量で企業の名前をサウンドに乗せて言う(歌う)。
そんなことが、起ります。
つまり、大逆転。
たった1秒や2秒で、CMは、印象の上では、
クライアントのものになってしまうのです。
ある意味、C.I.があまりにも強烈であるために、
「CMはクライアントのものだ」考えているとしか思えない
CMになってしまうのです。

それにしても、われわれ広告の作り手とクライアントは、
C.I.に過剰な期待をし過ぎているのではないでしょうか?
それが、一方的にクライアントの言いたいことを言っている
だけのCMなんて、見向きもされません。
でも、テレビから流れる限り、
消費者は、CMをいやでも見てしまう。
見てくれている。
C.I.は、消費者に、何かを擦り込むことができる。
そんな「おごり」のようなものがあるから、
日本のCMは、世界に類を見ない「C.I.王国」になっている。
そうとしか、考えられません。

でも、時代は、大きく変わろうとしています。
CMスキップ(CMを飛ばして番組を見る機能)が生まれ、
おもしろいCMを、YouTubeで見る若者だって少なくありません。
そうなると、あらゆる映像ソフトとCMが横並びになり、
純粋におもしろいCMだけが生き残って行くようになるでしょう。
そう、「消費者は、CMをいやでも見てしまう。見てくれている」
時代は、もう終わろうとしているのです。
テレビと消費者の関係が、大きく変わっていくのです。

いままでのような考え方のC.I.は、
そこではもう意味をなさないか、
邪魔なもの、あまりにも一方的な押しつけになるでしょう。
CMは、誰のものでもなく、コミュニケーション・ツールである。
その、あたり前の考え方に戻らなければ、いいCMが生まれない。
そんな時代が、もうすぐそこまで来ているような気がします。

それ、あなたの好きなC.I.ですか?
何かを、強く押し付けられている気がしませんか?
CMそのものを、邪魔していませんか?
ちょっとC.I.を気にして見てみてください。
どんなC.I.かで、そのクライアントの
CMに対する考え方がわかってしまう。
もしかしたら、
消費者に対する目線さえ、わかってしまう。
・ ・・かもしれませんよ。

(おわり)

第79回 C.I.って知っていますか?③

北海道のみなさん、こんにちは。

今日も、たくさんのテレビCMが流れ、
そのほとんどのCMには、C.I.がついています。
メジャーな企業になればなるほど、
C.I.抜きには、コマーシャルが成立しないかのように見えます。
そう、C.I.は、その企業を、どことなく「立派に」見せます。
理念と目標を持った、スケールのある企業なんだな、
というイメージを持ちます。

なかには、どう見ても、一本CMを打つのがやっとで、
わざわざ企業のアイデンティティーを高める
必要などないと思える企業が付ける、
「大企業コンプレックス」のC.I.も少なくありません。

でも、テレビでCMを打つ=メジャー、
C.I.が付いている=メジャーは、ほんとうでしょうか?
企業が意図するように、C.I.は、
消費者に何かを伝えているのでしょうか?
企業イメージは、上がっているのでしょうか?

最近、とても気になるC.I.があります。
女性の甲高い声で、「キリン!」というサウンドと共に、
白地にKIRINのロゴマークが、
風になびく旗のように動いて、CMが始まる。
そう、いま、キリンビール、キリンビバレッジの
全商品のCMは、この強烈なC.I.と共に始まります。
普通、C.I.はCMの最後につくところを、
最初に持ってきたところに、アイデアがあります。
圧倒的な商品アイテム数を誇る企業だし、
キリンビール本体と、ノンアルコール飲料の
イメージの統一感も必要でしょう。
とりわけ、アサヒビールとの熾烈なシェアー争いを
しているキリンとしては、
その勢いや元気さを印象づけるのに、
多いに力を発揮しているのかもしれません。

でもこれ、ぼくの勘では、
おそらく消費者の方を向いていないC.I.です。
グループ企業として、全社、全社員に向かって、
旗振りのような役割を果たすこと。
あの強烈なC.I.にこめられた意味は、
そんなことなのではないかと思うのです。
士気高揚、業績アップ、企業としての勢いの演出。
意図したところが、たとえそうでなかったとしても、
少なくても、そんな風にぼくの目には映るんです。

逆に、いつ見てもスマートで、
文字通り、正しくC.I.の機能を果たしていると思えるのは、
アップルコンピュータのCMです。
最後に、たとえばiPhoneとか、iPodのロゴが、
時には、アップル社のリンゴのマークだけが出てくる。
サウンドが、効果的にシンクロしている時も、
そうでない場合もあり、あまりこれと決まった
ルールはないように見えますが、CMを邪魔することなく、
スマートに、効果的に付いている。
まさに、企業と商品を、メジャーに見せているように思えます。
なぜなら、世界中、どの国の人が見ても、
アップルコンピュータのCMとわかり、
それ以上のことはしていないから。
日本の多くの企業のように、日本人にしかわからない
「言葉」もなければ、余計なメッセージもない。
好き嫌いの別れるサウンドも一切ついていないから。

同じように、NIKEのCMも、最後に、
あのブーメランのような形をしたロゴマークが
出るだけなのに、それだけで
「カッコいいな」「さすがナイキだな」と思える何かがあります。

ぼくが、何度か演出を担当しているCMに、
Master Cardがあります。
このCMには、最後に必ず、
「お金で買えないものがある。買えるものはマスターカードで。」
というナレーションが入り、そのCMにふさわしい
アイデアのあるロゴマークの出方をします。
それを考え、アニメーションを作るのが、
毎回、とても楽しい作業なのです。
今回は、どんな風にロゴを登場させようか、
と最後まで気が抜けず、うまく行くと、
CM自体がレベルアップしたような気持ちになります。
しかも、これ、全世界のMaster CardのCMに、
同じフォーマットで、全世界のクリエーターたちが
アイデアを競ってあってつけているものなんです。
これ以上クリエーティブで、CMと一体感のあるC.I.を、
ぼくは他に知りません。

ぼくが、好きなC.I.を挙げてみたら、
期せずして、外資系クライアントになってしまいました。
日本でも、もちろん、NISSANやSONYなど、
世界に通用するスマートなC.I.を持っている企業はあります。
でも、アップル社、NIKE、Master Cardなどの
「世界統一イメージ」をきちんと作り上げた企業には、
とうていかなわないな、と思います。

テレビでCMを打つ=メジャー、
C.I.が付いている=メジャーは、ほんとうでしょうか?

その答えは、こうです。
たぶん、イエス。
でも、日本の国内でだけ。
最悪なケースでは、その企業の人にとってだけ。

第78回 C.Iって知っていますか?②

北海道のみなさん、こんにちは。

Dream Skyward (日本航空)
美しい明日を作る(ライオン)
Make it possible (キャノン)
We Build Heart (大和ハウスグループ)
With Your Life (日本通運)
ヒューマンヘルスケア(エーザイ)
Designing The Future (KDDI)
ちゃんと、ちゃんと。(味の素)
おいしさとやすらぎを。(ハウス食品)
自然を、楽しく、おいしく。(カゴメ)
Inspire The Next (日立グループ)
Meet Your DELIGHT (日本たばこ産業)
・ ・・
どうです?
ぼくが関わった仕事で、思い出せるだけでも、こんなにいっぱい。
まだまだある、いや、やった仕事の数だけあるとさえ
言えるでしょうから、ホント、切りがありません。

ひとつひとつに、その企業の思い入れは相当なものがあり、
それに費やされた時間と予算、クリエーティブな労力は
計り知れないものがあります。

かつて(80年代後半)は、
「こんなC.I.が付くのなら、仕事を降りる!」と
豪語したディレクターの話も聞きましたし、
勝手にデザインをいじってしまったり(だれがやったかは言いません)、
「これじゃ長過ぎる」と、わからない程度に
C.I.を短くするなんてことは日常茶飯事。
もともと2秒あったのが、いろんなディレクターが
ちょっとずつ短くするうちに、いつのまにか1秒になっていた、
なんてことがあったくらいです。
音だって、思いっきり、小さくしぼってしまう。
「おいおい、もうそれくらいにしてくれ」とクライアントの担当者が笑う。
いまでは考えられない、そんな、なんとも悠長な時代があったのです。

C.I.ひとつにも、歴史があります。
80年代の終わり頃から90年代にかけて
(つまり、またもやバブル期の話になるのですが)、
クリエーター主導で、おもしろいC.I.が生まれたこともありました。
その代表が、「目の付けどころが、シャープでしょ。」(SHARP)
街の、なんでもないところ(壁や電信柱)に、
そのスローガンが書かれた紙が張ってあるだけの
ポスターやテレビCMが、ずいぶん話題になりました。
仲畑貴志さんのコピー、副田高行さんのデザイン、
CMは川崎徹さんのディレクション。
企業の言いたいことが、そのまま、
万人受けする、いや、だれよりも企業の人が安心する、
言葉やシンボルマークに置き換えられることの多い
「普通のC.I.」と違って、
そこには、ちゃんとクリエーティブが存在しています。
そう、クリエーティブとは、おもしろく伝えること。
クリエーターは、クライアントの言いたいことの代弁者ではないのです。

「ちゃんと、ちゃんと。」の、かつての味の素のC.I.にも、
それこそ、ちゃんと、アイデアがありました。
牧瀬里穂が、カメラ目線で「ちゃんと、ちゃんとの、味の素」
とメッセージするCMもたくさん作られましたね。
普通なら、企業が「ちゃんと製品を作っている」ことだけを
メッセージしがちなC.I.と違って、
「ちゃんと食事をしよう」という消費者目線が、そこにある。
シンプルで、なかなか巧みですよね。
そうそう、「おいしい顔。雪印」の雪印乳業だって、印象に残っています。
♪おいしい顔って、どんな顔〜というCMソングがあったから、
なおさらでしょう。
良し悪しは別にして、一方的に企業の言いたいことが
言えているだけのC.I.にはない、
わかりやすさ、親しみやすさがあります。

90年代も後半になると、
盛んに「ブランディング」ということが言われ出しました。
日本を代表する大企業が、こぞって企業のロゴマークを見直す、
というような時期があったと記憶しています。
外資系(主にアメリカ資本)のブランディング専門会社も入ってきました。
JALやTOYOTAや大和ハウスの
企業ロゴやマークのデザインが、それにあたると思います。
ロゴマークにとつに、長大な意味を持たせ、
その使用方法には厳密なマニュアルが導入され、
言うまでもなく、莫大な費用がそこに発生するようになりました。
よくはわかりませんが、かつては、
企業の創設者や代表者の好みであったり、
デザイン界の大御所先生が考えた企業のロゴマークに、
科学的なメス(マーケティング?)が入れられた。
80年代に流行ったクリエーター主導の、
「おもしろいC.I.」も、影を潜めた。
その結果、事情はともかく、そこから、
C.I.を作る人、受け取る人の「人の気配」のようなものが、
消えていったような気がします。

そして、ぼくらCM制作の現場にいる人間からすると、
C.I.は、それ自体独立した、コマーシャルにはなじみにくい、
強烈なものになっていきました。
たった2秒や3秒の中に、抱えきれないくらいの荷物を背負っている。
いつ頃からか、C.I.は、そういう存在になっていました。

第77回 C.I.って知っていますか?①

北海道のみなさん、こんにちは。

ぼくらの業界で、みんながC.I.
(コーポレート・アイデンティーティー、略してC.I.)
と呼んでいるものがあります。
お聞きになったことがありますか?

その言葉は、ご存じなくても、テレビCMの最後に、
印象に残るサウンドと共に、その企業の名前が入るのは、
ご記憶にあるでしょう?
そう、ソニー、パナソニック、味の素、キリン、
TOYOTA、NISSAN・・・
ジャンルを問わず、多くの大企業のコマーシャルには、
その企業の名前や、スローガンが、ほんの1秒〜3秒の間に、
タイポグラフィーと音で、デザインされています。
ひと昔前なら、カネボウが「For Beautiful Human Life」
と言っていましたし、
TOYOTAなら「Fun To Drive」、
積水ハウスは、長年♪セキス〜イハウス〜という
サウンドロゴとタイトルを使っています。
めずらしいところでは、長年C.I.を導入せず、
作品本位のCMを作ってきたサントリーが、
「水と生きる」という企業スローガンを導入したことがありました。

この、CMにC.I.をつけるということ、
外国のCMにないわけではありませんが、
こんなにも数多く流れている国は、めずらしいようです。
カンヌ映画祭のCMフェスティバルで、
日本から出品されるCMに、あまりにもC.I.が多いので、
それだけでブーイングが起った、という話を聞いたことがあります。

でも、C.I.って、なんのために?
もちろん、企業の認知度を高めるために。
たくさんのCMを打っている企業だと、
それだけ数多く企業名をC.I.で印象づけることができます。
また、ばらばらな商品、個々のCMにも、
その企業のC.I.を付けることで、イメージの統一感と信頼感が増します。
それによって生まれるのが、アイデンティティー、
そしてブランド効果というわけです。

何にでも、最初があります。
あたり前のように、いまテレビで盛んに見るサウンド付きのC.I.を、
最初に始めた企業って、どこなんだろう?

みなさんは、後ろ向きのエンゼルが振り返るアニメに、
♪ピポピポというサウンドがついた、
森永製菓のCMは覚えていらっしゃいますか?
あそらく、あれが最初だったのではないか?と言う人がいます。
ぼくも、長年仕事をさせていただいている
ONアソシエイツというCM音楽制作会社の大森昭男さんです。
1960年代からCM音楽を制作していらっしゃる大ベテラン。
その大森さんが、「このアニメーションに音楽を付けて欲しい」
と依頼され、♪モリナガと歌うべきところを、
それをイメージさせるリコーダーの音だけにしたのだと聞きました。
1970年代の話、作曲は、クニ・カワチさんだったと思います。
この、あえて企業名を歌わないところに、
森永製菓のC.I.には、アイデアがありました。

実は、ぼくも、一度だけC.I.の「演出」をしたことがあります。
1986あたりでしょうか?
当時ぼくがいた、サン・アドという会社に、
SONYのC.I.のアイデアを考えて欲しいという依頼があり、
ぼくが担当して考えたのが、黒バックに白文字でSONYが、
瞬きするような一瞬の動きと共に現れる。
ピッ、というサウンドが一音ついただけのものでした。
デザイナーの葛西薫さんと共に、「スマートで、品格のあること」
を目指して考えたのだと記憶しています。
つまり、それが、ぼくらが考える「ソニーらしさ」だったのです。
そして、ぼくは演出家ですから、どんなCMに付いても、
目立ち過ぎないこと、できるだけ短いことを心がけました。

でも、いま考えると、よくそんなものが通ったものだと、
不思議に思います。
その頃から、C.I.は流行のピークを迎えます。
どんどん強く、どんどん目立つように、
とクライアントが考えはじめたから。

C.I.は、自然とクリエーターの手を離れ、クライアント主導で、
広告代理店によって、作られて行くようになりました。
そうなると、もうC.I.がひとり歩きしはじめます。
CGブームも手伝って、派手なアニメーションや強烈な音で、
とにかく目立つこと、印象に残ること、
つまりそれ自体の完成度が求められるようになったのです。
広告代理店を中心に、何パターンも作られる中から選ばれたC.I.が、
ぼくらの手に渡る。
もちろんそれは、ぼくらが手を出せない「聖域」。
そして、世の中は15秒CM中心に動くようになっていました。
15秒のCMに、2秒や1.5秒のC.I.が付く。
ということは、正確には、13秒でCMを完結させなければならない。
たとえそれが、どんなに静かなCMであっても、
最後には、強烈な画と音のC.I.を付けなければいけない。
そんなことが、ぼくら制作者にとっての日常になっていました。
(次回に、続きます。)

第76回 時代と共に変わるCMの長さ

北海道のみなさん、こんにちは。

みなさん、CM、ちゃんと見ていますか?
テレビを、あまり見なくなったって!?
ほんとうに、よくそういう話を聞きますよ。
企業のサイトで?YouTubeで?
若い人ほど、そうらしいです。
ところで、みなさんがテレビで見ているCMの長さって、
ご存知でしたか?
最近、気になったCMをちょっと思い返してみてください。
最近じゃなくて、こどもの頃好きだったCMを
思い返してみてください。
さらに、景気が良かった頃のCMを思い出してみるというのも、
おもしろいかも?

最後の質問の答えは、15秒です。
ぼくのこどもの頃には、15秒CMというのは、
ほとんど存在していませんでした。
それが、1970年代後半になって、確か、
外資系クライアントが15秒CMをやりだして、
徐々に広がって行った、と聞いたことがあります。
景気の良かった時代、バブルの頃に、
15秒CMは絶頂期を迎えます。
広告代理店や、テレビ局側にとっては、
15秒CMを数多く売った方が儲かる、
という事情もありました。

かつての、サントリーや資生堂の名作CMを、
最近になって見る機会があると、驚きます。
そのほとんどが、妙に長く、ゆったりとしています。
そう、60秒CMが圧倒的に多かったのです。
昭和20年代、30年代生まれの人が、
こどもの頃好きだったCMを思い起こすとすれば、
それは60秒だった可能性が高いと思います。
いまでも覚えているCMソングがあったら、
ちょっと秒数を気にしながら歌ってみてください。
どうです?おそらく30秒くらいあるでしょう?
盛んにオンエアーされたスポットCMでも、30秒が主流でした。

でも、5秒CMってのがあったのを、ご存知ですか?
「なんである?アイデアル。」
古くて、恐縮です。
植木等が出ていた、昭和30年代の、
アイデアルという商品名の、折り畳み傘のCMは、
たったの5秒でした。
まさに、その長さにアイデアのあるCMでした。

ぼくがCM業界に入って間もない、
1970年代後半や80年代最初の頃に、
3分CMというのが、ちょっと流行りました。
資生堂や当時勢いのあった西武百貨店などが、
一社提供の特別番組を制作した時に作った、スペシャルCMです。
普段CMをあまりやらない映画監督などが作って、
当時の広告賞を総なめした、傑作、名作も生まれました。

3分は特別だとしても、CMディレクターになったら、
どうしてもやってみたかったものに、
セイコー一社提供の大晦日番組、
「ゆく年来る年」のCMがありました。
これは、1分CM。
1分で、時間の長さや、大切さ、かけがえのなさを語る。
年末が近づいてくると、広告代理店各社の精鋭プランナーたちが、
CMを勝ち取るべく、こぞって競合しました。
そして、売れっ子ディレクターが、それを演出する。
ぼくにも、独立した年に、そのチャンスが巡ってきました。
いまでも、その時のうれしさを、はっきりと覚えています。
(若いOLの女性が、ストップウォッチを持って、
朝、会社の階段を駆け上がる、というCMでした。)

90年代くらいになると、「今回は15秒CMしかない」とか
「15秒CMがメインだ」とはっきり言われることが
増えてきました。
番組の提供枠ではなく、スポットで、CMを大量に投下する
などという場合は、15秒CMが圧倒的に多くなりました。

最近になって、再び、15秒しかない、
というケースがたびたびあるようになりましたが、
今度は、事情が逆。
番組を提供したり、30秒CMを作ったりする余裕が、
企業になくなったから。
15秒CMを、かつての感覚で言えば「細々と」オンエアーする。
そんなCMが、増えてきているようです。

でも、ぼく自身が、ここ数年手がけたものを振り返ってみると、
明らかにCMの長さは、流動化している気がします。
1分、ときには90秒などという長さのCMを作ることが、
とても増えてきています。
クライアントのオーダーは、30秒CMでも、
あえて60秒の長さを作って、ウェブで流す。
15CMしか作らない場合なら、30秒CMを作る。
最初から60秒CMを、というオーダーも少なくありません。
特別番組や(24時間テレビや、イベント的なスポーツ番組など)、
そのクライアントの提供番組で、
あえて1分CMを流すという傾向が、再び増えてきました。
ウェブで人の目に触れるCMを無視できなくなってから、
明らかにCMの長さに対する感覚が変化してきています。


現場にいる者の感覚からいうと、
長尺CM(1分以上のCMをこう呼びます)を作ると、
盛り上がるんです。
作るぼくらも、クライアントも、盛り上がる。
この長さがあると、やっぱりいいよね。
言いたいことが言える。見応えがある。
しみじみする。企業の好感度が上がる。
制作者とクライアントの気持ちが、ひとつになる気がします。
不思議です。
15秒CMを作っているときの、
音が小さいだの、タイトルをもっと大きくだの、
もっと刺激的なコピーを、などという殺気立った雰囲気が、
スーッと消えてなくなる気がします。

さて、そんな時代にCMを見て育つ子どもたちの、
記憶に残るCMの長さは、一体、どういうものなのでしょうか?
まだ、ぼくにも予測がつきません。
でも、単に勢いや、目立つことだけでなく、
こどもにいい影響を与えるような、将来「いいCMだったなぁ」
と振り返ってもらえるCMを作るには、
ある意味、おもしろい時代になったと言えるかもしれません。
CMの長さの流動化。
15秒一辺倒の時代の終焉。
それは、歓迎すべき傾向だという気がしています。
人の記憶に残ってこそ、CMは「文化」になるのですから。

第75回 混じりっけのないCM、できました。

北海道のみなさん、こんにちは。

以前ここで、「オフ・コマーシャルという実験」というタイトルで
紹介させていただいたCMを、
つい先日、やっとぼくのブログで公開することができました。
今日の「編集人コラム」でも、
さっそく編集長の渡邊さんが取り上げてくださっています。
過分な評価をいただき、うれしい限りです。
(たとえウェブ上のお付き合いであっても、
持つべきものは友人ですね。)

ブログでも紹介していますが、今週のはじめには、
できあがったCMを持って北九州まで行き、試写会をしてきました。
今回のコマーシャルは、石けん作りの様子を、
ドキュメンタリー風に、ただ撮っているだけのもの。
試写会に参加してくださったシャボン玉石けんの
みなさんにとっては、見慣れた風景に過ぎません。
たいしたアイデアも、CMとしての「ひねり」も、
音楽やナレーションの「強さ」も、ありません。
それを、どう受け止めていただけるのか、
正直言って、とても不安でした。

ところが、そんなぼくの不安をよそに、
「こんな風に感じてもらえたらいいな」という、
このCMに込めたぼくの思いが、ストレートに伝わった。
そう感じさせる、制作者としてはとても感動的な試写会になりました。

日頃のCM作りで、ぼくらは、どうやら
「感じる力」を過小評価してしまっているようです。
これは伝わらないだろう、とか、これはわかりにくい。
そんな理由で、作り手としてほんとうに表現したいことをねじ曲げ、
実力やこだわりを出し切りきることなく、CMを作ってしまう。
そういう、受け手の「感じる力」を信じない表現が
横行している気がします。
人の評価や、CMとしての効果を気にするあまり、
作り手の「感じる力」を、十分に働かせていない気がします。
それが、いまの広告作りの現状です。
でも、感じたことをストレートに表現すれば、
クライアントや視聴者のことを気にするような
「混じりっけ」さえなければ、
それがどんなに地味でも、個人的な思いや好みであっても、
ちゃんと伝わるのだ。
「感じる力」を、もっと信じていい。
あらためて、そう思わせてくれる試写会でした。

広告をする上で、とても大切で、単純なことが、
ひとつ、忘れられています。

その企業が好きか。
自分の会社が好きか。
その商品を、自分で欲しいと思うか。
使いたいと思うか。愛せるか。

仕事だから、そうはいかない。
好きじゃなくても、欲しいとか、使いたいと思わなくても、
作ったり、売ったり、宣伝したりしなければならない。
それが、多くの人の、いまある「現実」です。
でも、その、商品や企業のことを、
思ったり、信じたり、愛したりする力が、
弱っていればいる分だけ、広告の伝わる力だって弱くなる。

試写会で、あるベテラン技術者の方が、大声で言いました。
「おれの人生そのものだ!」と。
CMに写っているのは、ただまじめに
石けん作りをする人たちの姿だけなのです。
それを見て、「人生そのもの」と言い切れる人の、
なんと幸福なことでしょう!

試写会が終わった後で、
社長と親しくお話しさせていただいた中に、
こんな話がありました。
「うちの会社ほど、社員の、自社製品使用率が
高い会社はないでしょうね。自分の会社で作った石けん
以外のものを使っている人は、まず、いません。
会社を辞めた人でさえ、ずっと使い続けているようです。」
すごい会社があるものです。
何気ない話ですが、まるで、
無農薬野菜を作る農家の人のような話です。
自分の体に関わることだから、
自分で安心して使えないものなど作れない。
多くの農家の人がそうであるように、
それがわかっているのと、実行するのとでは、雲泥の差です。

日頃、なかなか混じりっけのない仕事などできませんが、
その大切さを思い起こさせてくれたこと。
そして何より、そんな会社のためのCMを作れたことを、
ほんとうにうれしく思います。
今回に限っては、混じりっけのない、
その商品を信じ、CMを作りたいという気持ちだけの、
無添加なCMができたのではないかと思っています。

第74回 美しい四万十川にて

北海道のみなさん、こんにちは。

先週末から、今週にかけて、
3泊4日で、四国の高知県へロケに行っていました。
ロケで四国に行くのは、5〜6年ぶりでしょうか?
その前は、さらに10数年から20年くらい前にさかのぼり、
四国でロケするのは、今回で4回目。
九州や北海道はもちろんのこと、沖縄に比べても、
四国は、なかなか行くチャンスのないところです。

どうしても四国に行かなければならない理由があるとしたら、
まず、川でしょうか?
CMの企画で、しばしば、清流や渓谷の「懐かしい景色」、
「ホッとする景色」を舞台するものがあります。
あまり人の手が入っていない、自然で美しい景観、
そして澄んだ川の水を求めるなら、
まず、四万十川の名前が挙がります。
逆に言えば、この「水の国」、「川の国」である日本で、
写って欲しくないものがない川の景色には、あまり選択肢がない。
とても、残念なことです。
まして、今回は、まだ十分に、木が緑になっていない季節での撮影。
清流があるとすれば、山がちなところになるので、
自然の変化ももうひとつ遅いのです。

が、さすがに、四国。その最南端の高知。
九州や本州のどこよりも、ほんの少しだけ早く、
春が訪れていました。
そして、今回の四万十川ロケになった、というわけです。

四万十川

ロケハンやロケで、必ず食べていたのが、鰹のたたき。
その次に多かったのが、川エビやゴリ(川の小魚)の唐揚げ。
青のりを天ぷらにしたものや、鮎、天然のうなぎ、
魚のすり身を揚げたもの、筍や山菜もよく食べました。
いえ、別に、豪華な料亭に行ったわけではないんです。
居酒屋でも、お昼のお弁当にも、それらがよく登場しました。
誰かが、ふと、言いました。
「高知は、川のものも海のものも食べられる、豊かな土地柄だね。」
まさしく、そうです。
四万十川の河口、海の近くでは、黒鯛なんかが捕れるそうです。
海、川、山。確かに、三者三様の味が、
ごく自然に交わっている土地柄かも知れません。
それに、高知は、日本でも有数の
酒造りの盛んなところでもあります。
なんとも力強い味の、高知の酒。
強い日差しと肥沃な土が育むお米と、
おいしい水があってこそ、なのではないでしょうか?

それにしても、四万十はアクセスが悪い。
高知空港から、中村市を経由して、3時間以上車で移動して、
ようやく適度な川幅で景観の美しい上流にさしかかります。
途中、車がすれ違うのがやっとの「国道」を通って。
その、アクセスの悪さがあってこそ、
四万十の清流は守られているのだと思います。

でも、10数年前、20年前の記憶が、
もうひとつ、たどれないのです。
確かに、このあたりを、かつてロケハンしたり、
ロケしたりしたはずなんだけど、と思うのですが、
どうも、ピンと来ない。

地元の人によれば、「四万十の水もにごった」とのこと。
よく見ると、河岸工事が進んだのか、
河口に近いほど川岸のコンクリートや、
土手に積まれたテトラポットが目につきます。
至る所に、以前の何倍も、
積極的な観光ポスターも貼られています。
特産物を売る「道の駅」も、いくつかできていました。
たまたま出会った漁師の人が、
「最近は川魚が釣れなくなった」と、
あたり前のことのように言っていました。
もちろん、撮影や観光の目で見る限り、
四万十川は、十分に美しく、
穏やかな山並みに囲まれ、水は澄んでいて、
沈下橋が、相変わらず、風景をのどかに見せていました。
今回のように、短い滞在で、本当の変化は、
十分に伺い知ることができなかったけれど、
ほんとうのところ、どうなんだろう?
少し、心配になりました。

たまにそこを訪れる者の、
都合のいい言い分かもしれませんが、
10年後も、20年後も、
清流や渓谷での撮影となれば、いちばんに名前の挙がる、
「美しい四万十川」であって欲しいものです。

撮影風景

第73回 ぼくの、代官山物語 ⑩

北海道のみなさん、こんにちは。

昨日、知人のブログで、思いがけないことを知らされました。
代官山に27年間あった喫茶店が、先月末、
ひっそりと閉店したことが、そこに書かれていたのです。
フォリオという名の、その喫茶店は、
代官山郵便局のあるビルの地階にありました。
7〜8名の客が座れるカウンターに、
確か、大きなテーブルがひとつと、小さなテーブルがふたつ、
決して大きな店ではありませんでした。
ネルドリップで入れた深煎りのコーヒーがおいしくて、
一息つきにぶらりと行ったり、人と会う場所にしたり。
そうそう、代官山に住んでいる間、
毎日事務所やうちで飲むコーヒーも、
ほとんどそこで買ったコーヒー豆で入れたものでした。
いまでは、懐かしい思い出です。
そして、また、ひとつ、残っていた火が消えた思いがします。

ぼくのいま住んでいるところから都心に出かける時、
よく代官山を通ります。
いまでも、時々、ショッピングや食事に行きます。
でも、いつ行っても、代官山は落ち着かない。
旧代官山東急アパートがなくなり、
同潤会アパートがなくなった後も、
次から次へと古いビルが壊され、
代官山の街から工事音が絶えたことはありません。
できた端から、ファッションや飲食の店がオープンしては、
数年で姿を消して行きます。
代官山という街は、一見したところ、
相変わらずバブルに浮かれているみたい。
それなりに静かで安定した流れだったところに、
お金という名の水が大量に流れ込み、
泡(ショップ)が浮かんでは消えて行く。
そこに生息していた魚たちさえ、急激な流れに押しやられ、
いろんな外来種がやってきては去って行く。
そんなイメージでしょうか?

ぼくも、その「押しやられた魚」のようなものかもしれません。
代官山から逃げるように引っ越したいまの家に住みながら、
ぼくはずっと、自分が長く住む場所、
年寄り臭いかもしれませんが、「終の住処」がどこなのか、
考えあぐねています。
代官山という街には、一生ここに住んでもいいと思うイメージがあった。
仕事と生活が、分ちがたく、ひとつの点として、そこにあった。

そして、かつて、ファッションやマスコミが作り出す
文化と産業が、もっと元気だった頃、
東京には、代官山や、ある時期の原宿のように、
似た嗅覚を持った人間(いわゆる業界人)が集まる場所があった。
その嗅覚を持った人たちは、自然と住宅と商業の、
古さと新しさの、絶妙なバランスを持った街を見つけ出す名人だった。
東京の、とある街に、そんな人種が集まっては、
束の間のリトル・ニューヨーク、リトル・パリが、誕生する。
その後を、資本の波が、追いかけてきて、
見事にTOKYOという名の消費社会に変えて行く。
そして、そこから、古さと、自然と、住宅が、
つまり文化が、跡形もなく消えて行く。その繰り返し。
かつての六本木が、かつての青山が、広尾が、そして原宿、
代官山が、そうやって壊れて行った気がするのです。

ぼくが、もっとも忙しく仕事をした30代、40代を振り返ることは、
とりもなおさず、バブルの時代とは何だったのかを
振り返ることでもあります。
バブルは終わったのだと言われています。
でも、それは経済と景気の話。
消費のバブルは、ますます激しさを増している気さえします。
相変わらず、新しいビルを建て続け、
需要と消費を拡大することにしか、未来を見出せない。
むしろ、バブル崩壊以降の、いまに至る時代にこそ、
深い問題が潜んでいるのではないでしょうか?
ぼくらはまだ、「バブルの後」を生きる価値観が見出せていない。
代官山は、まるで「未来に向かって逃げ続けている」街のように、
ぼくには思えるのです。

ぼくは、なぜ、代官山に戻る夢を繰り返し見るのか。
そのわけは、たぶん、こうです。
中心に、戻りたいんです。
仕事と暮らしが、夢と現実が、ひとつになっている場所に戻りたいんです。
いま、その中心は、かぎりなく空洞にちかい何か、なのかもしれません。

IT長者が、六本木ヒルズに集結して話題になったこともありました。
でも、そこに文化が生まれることはないでしょう。
きっとどこか、まだあまり知られていないところに、
次の時代のカルチャーを担う人たち
(お金よりもアイデアをたくさん持っている人たち)が、
ゾロゾロと、自然に集まっているのかもしれない。
ぼくの嗅覚が確かなら、いつか、そこに、
ぼくも「帰って行く」のだと思います。

(ぼくの、代官山物語・終わり)

第72回 ぼくの、代官山物語 ⑨

北海道のみなさん、こんにちは。

思いがけず、長くなってしまいましたが、
もう少し、代官山物語のつづきをお話させてください。

新しくなった代官山東急アパートメントに移ったのは、
確か、1993年だったと思います。
ということは、長い裁判や立ち退きをめぐる交渉を経て、
やっと施主、不動産会社の思惑通り一期工事が終わった頃、
すでにバブル景気は終わっていたのです。

東急不動産のプランは、こうでした。
古い代官山東急アパートメントはそのままにして、
駐車場の敷地と買収した隣接する土地に、
まず居住部分の一期工事をする。
その後、アパートメントを取り壊し、
そこに1、2階が、ショッピングフロアーで、
その上が、オフィスビルの二期工事をする。
それで、7階建ての、代官山東急ビルが完成するというプランでした。

しかし、予定通りに二期工事を進める勢いは、
もう、時代にも、施主にもありませんでした。
結局、取り壊しの後の、がらんとしたその敷地には、
5〜6年の期限付きで、いかにも間に合わせの、
2階建てのショッピイングアーケードが建ちました。
そして、結果からいえば、すでに10数年たったいまも、
相変わらず、そこには「間に合わせのショッピングアーケード」
があるだけで、一期工事で建った居住部分のビルが、
未完成のまま、空しい姿をさらけ出しています。

つまり、代官山東急アパートメントのあった場所は、
商業的にも生かされることのまないまま、
まるで、バブル景気の夢の後さながら、
いまだに「空っぽ」なのです。
30数年の、さまざまな人や家族の思い出と歴史、
そして、やっと育ちかけていた代官山の「文化」は、
東急アパートといっしょに「解体」されただけに終わりました。

ぼくは、新築になった代官山東急アパートメントに住みはじめ、
向かいにあった事務所は、
近くに新築されたマンションに移転したけれど、
仕事と生活、相変わらず、すべてにおいて代官山がぼくの基地でした。
東急アパートメントの建替え計画は、「破綻」したけれど、
代官山自体は、バブル崩壊後も、着々と姿を変えていきました。
1997年頃から、歴史的な建造物である、
同潤会アパートの解体工事が始まり、
2000年8月、代官山アドレスが竣工。
タレントか、当時頭角を現してきたIT関係の成功者くらいしか
手が出ない2億、3億の物件を含むマンションや、
流行りのお店で埋め尽くされたショッピングフロアーで、
ずいぶん話題にもなりました。

しかし、2001年の暮れに、
ぼくはとうとう、代官山を「脱出」しました。
新しい東急アパートメントに住んでいた約8年間、
ぼくはずっと解体と建築の工事音を聞かされ続け、
次々にできるファッションの店、美容院、飲食店で、
代官山の人口は膨れ上がり、
街は、DAIKANYAMAの雰囲気に引き寄せられた人々で
あふれるようになりました。

こんな街からは、早く脱出したい。
かつては、「一生ここに住んでもいい」と思った代官山は、
完全にバランスを失った、落ち着かない街に変貌していました。
バブルの頃、新しい商業地区として生まれ変わることを夢見た
代官山は、バブルがはじけた後も、夢を追い続けるしかなかった。
いま思い返してみると、代官山が変わってしまったのは、
むしろバブル崩壊後のような気がします。

第71回 ぼくの、代官山物語 ⑧

北海道のみなさん、こんにちは。

代官山東急アパートメントの建替え、立ち退きをめぐって、
ぼくは生まれて初めての法廷を経験することになりました。

前例や経緯から考えて、ぼくが「負ける」ことは、
あり得ないと言う自信はありましたが、
事務所にしていたとは言え、
毎日使っている居住スペースでのもめ事は、嫌なものです。
神経がすり減る思いでした。

「反対の会」の会合も、しばしば開かれるようになりました。
最初の弁護士が、駐車場にあった植え込み(築30年以上
たっているのですから、大木です)の伐採を許してしまう
という失態を演じたため、新たに、大物弁護士が起用されました。
弁護士の「格」というものは、もう、
事務所に行くだけでわかるものなんですね。
有楽町の雑居ビルにあった雑然とした前任者のオフィスに比べ、
後任者のそれは、政治家の事務所が集まっている紀尾井町の、
それこそ政治家の色紙がかかっていて、
高価な壷が置いてある広々としたオフィスでした。

弁護士が交代して、裁判の流れも、明らかに、変化しました。
弁護士は、そもそも都や区の建築許可に問題があることを指摘し、
行政にも働きかけたため、
新聞記事の地方欄に大きく取り上げられもしました。
大企業というのは、新聞沙汰になると、あわてるのですね。
急に事態の収束を急ぐようになった施主(東急不動産)の
態度が変わり、裁判は結審を待たずに、和解の日を迎えました。
ぼくも、親しいアパートの住人たちに見守れながら、
一度だけ証言台に立ちましたが、
裁判は、もうひとつ緊張感に欠けるものでした。
明らかに、施主側の弁護士より住民側の弁護士の方に風格があり、
裁判長は「取るに足らない懸案」という態度を見せ始めました。
おそらく、当時は、そんな不動産物件をめぐる裁判が
頻発していて、和解の条件と時期の見切りをつけるのは、
そんなに難しいことではなかったのだと思います。

それでも、2年間。
それなりに長い裁判を経て、「反対の会」は、
施主から大幅な譲歩を引き出しました。
総額にしてかなりの和解金が支払われ、建て直し後に、
新しい東急アパートメントに引っ越すことを選択する住民には、
長期の家賃据え置きなどの条件が提示されました。

あれほど取り壊しそのものに反対していた住民の多くは、
さっさと示談金を手にして引っ越しを決めていきました。
代官山は、もう、かつての代官山ではない。
すでに、近くの同潤会アパート(原宿と並んで、
記念碑的な日本初の近代的集合住宅)の取り壊しも、
着々と準備されていはじめていました。
代官山に代わるところなどあるのだろうか?
と愚痴をこぼしながらも、すでに家を建てたり、
マンションを買ったり、引っ越しを決めたりしていた人も多く、
大枚の「立ち退き料」を手にして、正直、みんな、
「にんまりしている」空気でした。

それでも、代官山と代官山東急アパートメントに
こだわる住民はいたのです。
ぼくも、そのひとりでした。
いっそマンションを買おうかと思って、いくつか物件を見てみても、
バブル絶頂期、代官山に比べたらはるかに利便性の低いエリアで
50平米のマンションが1億もしたのです。
ぼくは、マンションを買うのは止めて、
すでに、郊外に別荘を持つという選択をしていました。

早々に、東急アパートから引っ越して、
自宅を新築した知人の家に遊びに行きました。
そうは言いませんでしたが、
立退料のおかげか、ずいぶん豪勢な内装でした。
さっさと事務所を引き払ったカメラマンは、
後日、いかにも新車の、紫のポルシェ・カブリオレで、
さっそうと代官山を走り抜けて行きました。
おそらく億に近い、手数料を手にしたであろう大物弁護士は、
その後1年足らずで日本新党から参院選挙に立候補し、
残念ながら落選。
次の選挙では、見事、当選を果たしました。

長い工事が終わって、新しい東急アパートに引っ越しする日が来ました。
外人向けに建てられた堅牢な作りから、
何もかも、「高級で、ありふれた」マンションの仕様に変わって、
相当がっかりはしましたが、
管理やサービスは相変わらず満足の行くものでした。
向かいのマンションに、ぼくのマジェージャーだった女性が
独立して、自分の事務所を構え、
ぼくは、再び代官山東急アパートメントの住人になっていました。
「ぼくらは、一生、ここでいいよね。」
同じ独身者だった、某雑誌編集者とぼくは、そう語り合っていました。

第70回 ぼくの、代官山物語 ⑦

北海道のみなさん、こんにちは。

代官山東急アパートメントが建て壊しになる、
という噂は本当でした。
オーナーである東急不動産から、建物はそのままにして、
駐車場部分に新しいマンションを建て、そこに、住民は移る。
その後、古い東急アパートを解体して、
そこに店舗とオフィスからなるビルを建てて、
複合ビルとするというプランが発表されました。
それも、ある日、いきなり書面が送りつけられる、
という強引なやりかたで。

昨日まで、のんびりとして、友好的な雰囲気だった
管理事務所の空気も、一変しました。
会社から派遣された、柔道選手OBのような、
強面の「地上げ要員」たちが入り、
立ち退きや移転に同意を迫る、静かな圧力が
感じられるようになりました。

住民側には、自然と、3つの流れができていました。

会社の求めに応じて、新しいマンションへの転居を決めるか、
いくばくかの立退料をもらい、すみやかに立ち退きを決めた、住民。
転居を前提に、個別に、弁護士を立て、条件を折衝する住民。
そして、プランそのものに反対して、
あくまでも東急アパートメントに住み続けたい、と主張する住民。
もちろんぼくは、3つ目のグループでした。

こんな時、さっと動き、住民の結束を促すような人というのが、
現れるものなんですね。
ある人が中心になって、あっという間に、
「取り壊しに反対する住民の会」が結成されました。
ぼくの仕事上の知り合いや、親しい付き合いのあった住民も、
ほとんどが、そのグループに入りました。
ぼくらの主張は、こうでした。
ぼくらは、この、古き良き時代に建てられたアパートが好きで
住んでいるのであって、新しい建築計画など少しも魅力的ではない。
管理会社が取り壊しの理由に挙げる、老朽化には、
そもそも疑問があり、改善は十分に可能である。
そして、「今後、商業地区として発展していく」という
代官山の青写真は、不動産会社のエゴでしかない。
もっとも、当時の世の中の流れから言って、
いったん、巨大デベロッパーが決めた建築計画が、
白紙撤回されることなど、起こりえないだろう、
という諦めムードが、ぼくらにも、暗黙のうちにありました。
そして、どうせそうなるなら、少しでもいい条件で、ここを出たい。
そんな気持ちがあったことは、否めません。

いざ、「反対の会」の住民が集まってみると、
そこには、さまざまな人がいて、さまざまな思惑がありました。
なんとかこのまま、ここで静かに暮らし続けたいと願う、
海外生活が長かった老夫婦。
このアパートで、子どもが生まれ、成人し、
ここ以外に、住むところなど考えられないと言う人。
どうせ出るなら、少しでもいい条件で、と思う働き盛りの人。
すでに、他に住むところがあって、別宅として維持していただけの人。
ぼくのように、元住居を、いまは事務所として使っている人。
とにかく、不動産会社の強引なやり方が許せないという
憤りがモチベーションになっている人。
でも、事情や思惑がどうであれ、
この、古き良き時代に建てられた、
レトロでモダンな外人向けアパートそのものが、好き。
代官山という、街が好き。
その思いだけは、ぼくらに共通していました。

「反対の会」の結成の動きと前後して、
ぼくのところに、ある日、裁判所から一通の書面が届きました。
管理会社が、契約違反による立ち退きを求めて、
ぼくを提訴した書面でした。
契約には、確かに、「住居として使う」旨の一文がありましたが、
そこを事務所として使っている多くの人の存在は、既成事実でした。
それに、そもそも、管理事務所に挨拶をしたうえで、
ぼくは事務所として使いはじめていました。
居住年数がもっとも少なく、
いちばん最後に、そこを事務所にした住民であるぼくが、
「反対の会」の切り崩しのために標的にされたことは、明らかでした。

それから約2年、
立ち退きをめぐって、長く憂鬱な日々が続きました。
でも、そんなこととは関係なく、
ぼくは、人生でもっとも多忙な時期を迎えていました。
相変わらず、代官山は、
ぼくにとって大切な、仕事と暮らしの「基地」でした。

第69回 ぼくの、代官山物語 ⑥

北海道のみなさん、こんにちは。

代官山東急アパートメントの部屋から、トランクを持って、
ぼくは、ひっきりなしに海外へロケに行くうようになりました。
帰りには、トランクには入りきらないくらい、
たくさんの写真集、美術書、ワイン、アンティークの陶器や置物、
時には、家具まで買って帰るようになっていきました。
少しずつ、ぼくは、「代官山に住む大人たち」の趣味や、
暮らしぶりに近づいていた。
少なくとも、自分では、そう思っていました。

演出はもちろんのこと、自分で、企画から
クライアントへのプレゼンテーションまでこなしていた時代。
ぼくは、日本人タレントよりも外人のモデルや役者を
使うような仕事が、とても多かったのです。
そして、ぼくにもクライアントにも、何の躊躇もなく、
海外で撮影することを前提に企画を考える「勢い」がありました。

そんなぼくが、ある時、
若くて、親しみやすいキャラクターの、日本人モデルを使って、
ごく身近なシチュエーションで撮影する企画を立てたことがありました。
撮影場所に選んだのは、ほとんどが代官山。
何気ない住宅街や、代官山にあるレストランの中でした。
うちから、歩いて5分も、かかるか、かからないかの、近さ。
朝、シャワーを浴びながら、DAIKANYAMAという、
外国のどこかの街に住んでいるような、
不思議な感覚に襲われたことを、いまでも思い出します。
ぼくの代官山での暮らしは、そんな風に、
ベッタリとしたリアルな日常性より、
外国の街のホテルに暮らしているような非日常性、
浮遊感のようなものが、少し、あった気がします。

そんな暮らしが3年も過ぎた頃、
ぼくは、いよいよ会社を辞めて、独立しました。
昨日まで、プライベートにしか使っていなかった電話に、
仕事の依頼やスケジュールを問い合わせる電話が、
ひっきりなしにかかるようになり、
オーダーして作ったグレーのデスクは、仕事机に変わりました。
仕事と暮らしが、まるごと、
代官山東急アパートメント19号室に詰め込まれた。そんな感じ。

それから一年もたった頃、独立する前にいた会社で
もっとも優秀な営業だった女性をマネージャーに迎えることになり、
ぼくは、そこを事務所にしようと考えました。
いや、それは、「考えた」というより、
かねて想像し、予定した通りの、ごく自然な流れでした。
ベッドやテーブルは処分し、そんな時が来るのを
どこかで意識しながら作った大きな棚はそのままにして、
生活道具を持ち出し、代わりに、大きな打ち合わせ用のテーブルと、
マネージャーのためのデスクを置いたら、
19号室は、あっという間に事務所に変身しました。
ぼくは、代官山から車で、10分かかるか、
かからないかのところに、ワンルームのマンションを借り、
そこで暮らすようにはなったのですが、寝に帰るだけ。
ぼくの暮らしぶりは、仕事中心、そして、代官山中心でした。

ぼくのように、代官山東急アパートメントを
オフィス代わりに使っている人は、大勢いました。
会社というより、あくまでも個人事務所の規模ですが、
多くのオフィスと住宅と混在する集合住宅になっていました。
他に自分の住むスペースを得たことで、
ぼくは「一生もの」の家具を少しずつ買いそろえるようになり、
海外から持ち込む荷物にも、ますます拍車がかかりました。
ぼくは、ちょっとした、アンティークの器や壷の
コレクターになっていました。
インテリアの本や雑誌を読みあさり、
和のことも少しは知らなければと、お茶の教室にも通いました。

ぼくは、一生、代官山に暮らすだろう。
いまは、代官山のアパートを、自分の事務所にしているけれど、
来るべきときが来たら、またそこに暮らしてもいい。
そう思っていました。

けれど、1990年代に入った頃、
時代は、あっという間にバランスを崩しはじめ、
いつしか、こんな声がささやかれはじめました。
「代官山東急アパートの、建替え計画があるらしい。」
時代は、バブル絶頂期。
築年数30年以上も経過していれば、どんな建物でも、
地上げや建替えの話が持ち上がった、そんな時代でした。

第68回 ぼくの、代官山物語 ⑤

第68回 ぼくの、代官山物語 ⑤

北海道のみなさん、こんにちは。

代官山という街には、大人が住んでいた。
それも、ぼくの仕事や、価値観、ライフスタイルに近い、尊敬できる大人が、たくさん住んでいた。いま振り返ると、そんな気がします。

当時、ぼくが勤めていた会社の大先輩から、「いいところに引っ越したな。君、そこはいいよ。亀ちゃんや、公ちゃんがいるしな」と言われたことは、すでに書きました。「きっと、影響を受けるよ」、言外には、そんな意味があった気がします。

CMディレクターで、アーチストでもある亀井武彦さん。カメラマンで、デザインやイラストレーションも得意な、やはりアーチスト肌の大西公平さん。おふたりの、住まいや事務所に遊びに行くと、どこか、似た匂いがありました。整理の行き届いた空間に、モダンなインテリア。とりわけ、当時、東京の趣味のいい「業界の」大人たちの家に、決まってあったのは、ル・コルビジェのソファ。亀井さんと大西さんのお宅にも、黒の革張りの、LC2と呼ばれるふたり掛けのソファがありました。それに、北欧やイタリアのモダンな家具や照明、アールデコや、イギリスアンティークの調度品が、それぞれの趣味で配置されている。30歳になったばかりのぼくが初めてみる「大人の空間」が、そこにありました。

おふたりに、共通しているのは、海外で暮らした経験があること。そのライフスタイルには、どこか「外国の匂い」があった気がします。そして、元々、日本に住む外国人向けに建てられた代官山東急アパートメントには、そんなライフスタイルが好きな人や、長く海外で暮らした人が、多く住んでいました。

初めて、東急アパートのすぐ近くにある、大西さんのご自宅に遊びに行ったときの「ショック」を、ぼくは、いまでもはっきり思い出すことができます。
バランスよく配置された趣味のいい家具に、まず釘付けになり、その日のために飾られた花や、おびただしい数のアートや写真の本、うずたかく積まれた外国の雑誌、イギリスやアメリカ、いろんな旅行先からやってきたであろうアンティークの小物たち。「大人の会話」に、精一杯ついていきながら、ぼくはきょろきょろと、あたりを見渡していたはずです。そして、自ら振る舞う料理のおいしさと心配り。初めて出会う、「趣味のいい、大人の暮らしぶり」がそこにありました。

まだ、そんなものには、無縁だったぼく。
何も勉強しないうちに、すべての家具を作ってしまったぼく。
家具、料理、アート、ファッション・・・
具体的に、何を、ということではないのですが、大西さんや亀井さんをはじめ、代官山に住む大人たちが発する空気から、ぼくは深呼吸をするように、多くのことを学び、吸収していった気がします。そして、代官山は、そんな大人たちが住む街だった。

おそらく東京で唯一のアールデコの店KIYA GALLERYや、イギリスアンティークのLLOIDがあり、こどもは近づけない高級洋食の小川軒、老舗のイタリア料理店アントニオ、ひとつひとつ違うカップで、おいしい深煎りのコーヒーが飲める喫茶店フォリオ、朝から焼きたてのパンが買えるシェ・リュイ、世界一高くておいしいTOM'S SANDWICH、亀井さんの色紙もあるとんかつのげん田。なくなった店も、いまも健在な店も、あります。でも、顔なじみの代官山の住人が、ぶらりと立ち寄る雰囲気の店は、もう、ひとつも残っていません。

代官山に住む大人たちは、散り散りになり、それに代わる「大人の住む街」はどこにあるのか、ぼくには思い当たりません。
あの、代官山東急アパートメントさえ残っていたら。
ぼくは、いまでも、時々、そんなことを考えます。

第67回 ぼくの、代官山物語 ④

北海道のみなさん、こんにちは。

ぼくが住むことになった代官山東急アパートメントの部屋は、広さ36㎡のワンルーム。それまで住んでいたのは、6畳一間の和室にキッチンがついた、典型的な独身者向けアパートでした。家具は学生時代から使っていたものに、ちょっとずつ買い足し、畳の上に布団を敷いて寝る生活。外人向け住宅として建てられたアパートに似合うものは、何ひとつありませんでした。

ぼくは、すべての家具、家財道具を捨てて、買い替えることにしました。でも、気に入った家具を見つけることができるインテリアショップは、当時の東京には、ひとつもありません。ぼくの財力でも買える、ミッドセンチュリーや北欧の、リーズナブルな中古家具を扱う店など、まだ一軒もなかったのです。デパートの高級家具は趣味じゃないし、かと言って、20世紀の名作家具を買うには、知識も財力も足りない。そこで、ぼくは、すべての家具を作ってしまおう、と思い立ちました。

スタイリストの友人に紹介してもらったのは、コム・デ・ギャルソンのショップの内装を手がける会社の人でした。買ったのは、ベッドのマットと、ダイニング用の椅子、二脚だけ。本や食器、オーディオ、洋服以外のほとんどすべてのものを収納して、小物を入れる引き出しまで付いた、大きな棚。収納付きのベッドの台、テスクと、ローテーブル。それらすべてを、デザインと言うほどのこともないけれど、自分で、形や大きさを考え、作ってもらいました。それも、まるで当時のコム・デ・ギャルソンのショップのような、グレー一色で。その結果、36㎡の部屋は、ちょっとしたブティックのようになってしまいました。

やがて、会社の同僚が、こう呼ぶようになりました。「バー19号」。
たとえば、会社で遅くまで仕事をした後、深夜まで六本木で飲んだ帰り道、だれかが言ったものです。
「じゃあ、バー19号に行こうか!?」
代官山東急アパートメント1階の19号室。
それが、ぼくが住む、どことなく生活感のない、ブティックのような部屋でした。

何も、ぼくの部屋でなくても、すぐとなりのビルの地下には、ジャズがかかっているバーがあり、横断歩道を渡れば、定食屋も八百屋も薬局も(それも同じ姓の一族が営んでいる店が)ありました。
おいしいコーヒーが飲める喫茶店、
小さくて汚くて愛想が悪くてけっこうおいしいラーメン屋、
いつも揚げたてコロッケがある肉屋、
そこそこの高級寿司店に、まずい蕎麦屋、
冴えない床屋、酒屋、パン屋、郵便局、写真館、駅前の本屋。
要するに、街にあるべきものが、小さなエリアにほとんど揃っている。
それに、アンティークを扱うギャラリーや、オシャレな美容室やファッションの店があり、ヒルサイドテラスのようなところには、評判のサンドイッチ屋や、イタリアンや中華の店もある。

休日に、部屋着にサンダルで外に出ても、OKだった街。
一歩入れば、静かな民家が軒を連ねる街。
古い住宅と、古い集合住宅とが、共存する街。
隣りから、子どもがピアノを練習する音が聞こえ、
ふと気がつくと、日向に猫が寝そべっている街。
夜になれば、静まり返る街。
多くの芸能人、クリエーターたちが住む街。
大人の住む街。
「オシャレな街」と騒がれはじめた街。
不思議なバランスが、取れていた街。
そして、どこに行くにもアクセスのいい街。

そんな街に住み、やっと思うような仕事が来るようになった、30歳のぼくは、代官山東急アパート19号室を、いつか独立したら事務所にしようと心に決めていました。まだ、たいした実績もなく、何の根拠もないけれど、いつかそうなる。そう、信じていました。
ぼくも、時代も、前に向かってひた走っていた、1980年代、半ばのことです。

第66回 ぼくの、代官山物語 ③

北海道のみなさん、こんにちは。

代官山と原宿には、多くの共通点があります。
どちらも、渋谷からひとつめの駅。
どちらにも、関東大震災の後建てられた同潤会アパートがあり、
どちらも閑静な住宅街と古くからの商店が混在する、
落ち着いた街だったのに、
原宿は1970年代、代官山は80年代に、再開発の波が押し寄せて、
どちらも若者が押し寄せるファッションの街へと変貌を遂げました。
そして、どちらにも、広告、ファッション、音楽などの、
いわゆる「業界人」が住んだり、事務所にしたりするアパートが存在しました。
原宿には、セントラルアパートが、
そして、代官山には東急アパートが。

1970年代、原宿のセントラルアパートには、
多くのクリエーターが集結していました。
浅井慎平さん、繰上和美さんや、鋤田正義さんなどのカメラマン、
若き日の糸井重里さんがいて、多くのデザイン、ファッション、
マスコミ関係の事務所がありました。
それに比べると、スケールにしたら小さなものですが、
代官山東急アパートにも、ぼくが入居した当時には、
芸能人、ミュージシャン、広告・マスコミ関係者が住み、
多くのカメラマンの方がいました。
そうそう、CMディレクターも、ぼくを入れて3人。

いまだからこそ、こんな風に比較もできますが、
ぼくも含めて、ひとりひとりの人が、自分のライフスタイルに合っているからと、ごく自然に集まってきたまでで、結果、「業界人」が多く集まり、結果、原宿のセントラルアパートに似ていた、に過ぎません。
でも、不思議なものです。
時代は少しズレているけれど、流行に敏感で、サブカルチャーにかかわる仕事をする人々が、蜂が巣を求めるようにひとつの場所に集まってくる。
その嗅覚って、一体、何なのでしょう?
それはよくわからないけれど、原宿も、代官山も、ある時代に、独特のバランスの上にあった街、ということが言えるかもしれません。
住宅と商店。飲食とファッション。古い東京と新しい東京。和風建築と洋風建築。コンクリートと森。暮らす人と働く人。どの視点に立っても、どちらの要素もあり、その境界線であり、原宿は70年代に、代官山は80年代に、いちばん危うくておもしろい時代を迎えたのだと思います。

ぼくが、住みはじめた1980年代の代官山は、「第二の原宿」化する前夜でした。同潤会アパートには、オシャレなお店や美容院ができはじめていたけれど、まだ銭湯もあれば、食堂もありました。カブトムシが取れそうな、鬱蒼とした森もありました。
70年代風カジュアルウエアーのハリウッド・ランチマーケットや、イギリスからアンティークとファッションを仕入れていたロイドがあり、ぽつぽつと、安い家賃と静けさを求めて、感度のいいファッションの店がオープンしはじめていました。
そして、旧山手通りをはさんで、代官山には、ヒルサイドテラスがあります。住宅と店舗とオフィスが混在し、環境とも、古い住宅ともバランスよく共存している、モダン建築。それは、まさに、代官山。そして、代官山が目指すべき姿のお手本のようなものだと言えるでしょう。いや、もうそれは過去形でしか語れない。代官山は、バブルの時代に、ものすごいスピードで崩れていったから。

原宿も、代官山も、偶然に、自然発生的に、おもしろいバランスで、時代の先端を行っていた街だとするなら。
そのバランスが何かを、もっと自覚して、保ち、再開発していたなら。
東京も、今ごろ、少しは、マシな街になっていたはず。
業界人の嗅覚の後を追うように、時代は、まるでブルドーザーのように、原宿を、代官山を、踏みつぶし、変えていきました。


第65回 ぼくの、代官山物語 ②

北海道のみなさん、こんにちは。

代官山東急アパートメントというのは、ぼくが生まれた翌年、1955年(昭和30年)に、日本で最初の外国人向け高級賃貸アパートとして、東急不動産によって建てられました。戦後の社会状況が落ち着き、海外から来日する経済人が急増して、彼らを受け入れる長期滞在型ホテルのようなアパートが求められたのでしょう。渋谷からひとつめ、代官山駅のすぐそば。大きな敷地に、駐車場を囲むように建てられた、L字型の7階建てのアパートでした。

こうして、書きながら、何度もつい「マンション」と言ってしまいそうになります。でも、ご存知のように、マンションというのは、あくまでも「日本語」。正しくは、イギリスなら「フラット」、アメリカなら「アパートメント」。この、律儀に「アパートメント」と言う呼び方が、ぼくはとても気に入っていました。
フロントでは小包や荷物を預かってくれたし、地下にはトランクルームや、そこに入れておけば、クリーニング屋が勝手に洗濯物を取りにきてくれるロッカーがありました。かつては、レストランまであったと聞いています。最上階にはランドリー室があり、洗濯機や乾燥機がズラリ並んでいて、屋上には、広い物干し場がありました。各階に、ダストシュートがあって、すべてのゴミは、そこに放り込むだけ。管理、清掃、すべてに行き届いたところでした。
昭和30年代に、外国式のサービスを提供しようと、ずいぶんがんばったのでしょう。構造といい、サービスといい、まさに海外のアパートメント、いや、むしろホテルかコンドミニアムのようでした。建築から30年後、ぼくが入った当時は、すでに建物は老朽化しつつあり、もう「外人向け」と呼べる高級感はありませんでしたが、それでも、十分にその名残があったのです。

でも、ぼくがそこに入居したのは、まったくの偶然。
30歳になったばかりの頃、当時よく仕事をするようになった、あるコピーライターが、ぼくが引っ越す先を探している、と言うと、「うちのマンションはいいよ。空き待ちだけど、リストに入れておいてもらうよ」と言ってくれました。別に、たいして期待もしていなかったのですが、それからあまり日を開けずに、思いがけず、空き部屋が出たという連絡が入りました。
見に行って、即決で入居を決めました。そして、その時、どういうか、ぼくはこう思ったことをはっきり覚えています。

「ここなら、独立したときに、事務所として使えるな。」

36㎡のワンルーム。駐車場に面した1階。バスルームは、まるで外国の、古いホテルのよう。使い勝手のいい、コンパクトなキッチン。白い漆喰塗りの、コンクリートの壁。備え付けの電話や収納家具。古くさいドアノブやタイル、玄関のドアについた網戸、高い天井、上がりかまちのないフラットな玄関。カーペット敷きの床。レトロで、モダン。あまり生活感がないので、確かに、事務所としても十分に機能しそうでした。

でも、家賃12万は、当時のぼくからしたら、かなりの背伸び。毎月手にする給料が、20万あったかどうか、という時代。会社の上司に、「君、そんなところによく住めるね」と言われて、ぼくは返答に困りました。実は、会社以外の仕事(要するに、アルバイト)をちょくちょくするようになって、当時のぼくには、副収入がけっこうあったのです。また、別の上司には、こう言われました。「いいところに引っ越したな。君、そこは、いいよ。亀ちゃんや、公ちゃんがいるしな。」亀ちゃんとは、会社の大先輩で、フリーランスとして活躍されていたアーチストの、亀井武彦さん。公ちゃんと言うのは、当時、ぼくも仕事をお願いするようになっていたカメラマンの大西公平さん。確かに、当時の代官山東急アパートには、数多くの役者やミュージシャン、文化人や業界人が、住んだり、事務所として使ったりしていました。
「君、そこは、いいよ。」
その言葉は、こんな風に、ぼくには聞こえました。

「君、そこは、君の運が開けるところだよ。」